第三話 闇を纏う男は海の彼方の渺を望む
三之一
彼はそろそろ五十代の半ばに達するが、身体は未だに壮健である。そのせいもあってか、この歳になって未だに自ら全国各地を飛び回るのだ。
家人や店の者には、そういう遣いは若い者に任せて、いい加減に稜で落ち着いてくれと懇願される。だが呂酸は聞こえぬふりをした。こればかりはやめられない、私の生き甲斐なのだ、そもそも商人となったのは、商いにかこつけて天下を見て回るためだと嘯くのだ。とはいえこれ以上文句を言われ続けるのも煩わしいので、そろそろ隠居して好き勝手に専念しようかとも思う。
その日も呂酸は稜どころか旻も離れて、旻の東南にある
燦は、南天大陸の東に広がる
呂酸が目指したのは、東外海沿岸でも最も栄える
「久しぶりだな、呂酸。蘇沙は三年ぶりか?」
彼を出迎えたのは
「四年だ。久方ぶりにこの暑さは堪えるな。私も年だ」
「そういうことは、もう少し口元を引き締めてから言うのだな。相変わらず自ら出張らずにいられない性根は、変わらんと見える」
条猪に冷やかされて、呂酸は苦笑せざるを得ない。
蘇沙は稜に比べると日照りが強く、そのせいだろうか、港で働く人々の動きも大雑把に見えて、街全体を流れる時間も緩やかに感じる。一方で血気盛んな輩が多いのか、あちこちでの喧嘩騒ぎも日常茶飯事だ。忙しなく喧しい稜の活気とはまた色合いの異なる、適当な加減の活気に満ちた光景を目にして、呂酸は異国にある己を実感する。
しばらくぶりの蘇沙訪問に、心が躍っているのは間違いなかった。いかに相手が条猪とはいえあっさり見透かされるようでは、むしろ年甲斐もない青臭さが抜けきらないということだろう。
もっとも呂酸にも言い分はある。
「無理を言うな。是非見せたい品があると誘ったのは、おぬしではないか」
今回、呂酸が自ら蘇沙くんだりまで訪れたのは、条猪からの強烈な売り込みを受けてのことであった。条猪は惚けた顔で笑う。
「おう、そうであった」
「それもわざわざ私に足を運べとまで抜かしおって。これでつまらんものを見せてくれようものなら、他の積荷は仕入を半値に値切らせてもらうぞ」
「安心せい。きっとお前も腰を抜かすことは請け合おう」
条猪は軽々しく大言する男ではない。その彼がそこまで言うのならという期待が、呂酸の好奇心を否応なく搔き立てた。
***
門ひとつとっても、
目に煩いほどの賑やかしさこそ、
「
条猪は出迎えた下男にそう言い渡すと、自ら呂酸を客間に案内した。
「おぬしが最近、とみに稀覯品を買い集めていると聞いた。呂大人がついに商いを超えて道楽に溺れたなら、この商機を逃すまいと思うたのよ」
腰を下ろすなり悪びれた条猪の物言いに、呂酸は目尻に皺を浮かべて首を振った。
「道楽に溺れたいのは山々だが、そいつは隠居してからの楽しみだ。実は先日、稜でとある貴人と面識を得てな。この方のお屋敷には、私も見たことのないような珍品とも奇品ともつかぬ代物が、所狭しと積み上げられておるような好事家だ。類い希なるものならなんでも買い求めようと仰せつかって、既に何度か取引させていただいている。今回も大層な手付けを頂いているから、空振りというわけにいかん」
「そいつは羨ましいこった」
言葉通りに、条猪が羨望の眼差しを寄越す。
「どうやったらそういう太い客を掴めるのか、秘訣を聞きたいもんだな」
「偶然だ。たまたま私の抱えていた絵師が描く龍を、いたく気に入られたのだ」
すると条猪は、突如顔をしかめて大声を上げた。
「龍、龍か!」
条猪を刺激したのは、どうやら呂酸が口にした
「最近は
近頃、龍と呼ばれる巨大な
実害の有無は不明だが、何しろ天にも届こうという長大な身体をくねらせる姿は、荒くれ揃いの海の男たちも震え上がるのに十分だという。お陰で船を出そうにも人手不足に悩まされているのは、呂酸も同様だ。
「またきわどいもんが結んだ縁だなあ」
条猪に言われればその通りだと、呂酸も思う。
それにしても、肝心の稀覯品はいつお目にかかれるのか。呂酸が尋ねようとした折、先ほどの下男が戻ってきた。
「お待たせしました。ほら、こっちに来い」
下男に呼びつけられて現れたのは、燦人に漏れず浅黒く日焼けした肌の、小柄な中年女性だった。がっしりして見えるのは、骨が太いのだろう。頭に巻いた頭巾の下に覗く目つきは少々陰気だが、それ以上の特徴があるようには見えない。
彼女のどこに目を引くような価値があるのか。訝しむ呂酸の前で、女が今ひとり、廊下に控える誰かに呼び掛けた。
「闇充、こっちさおいで」
すると彼女の背後にぬっと現れた人影は、巨大としか言いようがない。
身の丈は、小柄な女の倍ほどもあるのではないだろうか。太い首の後ろで束ねられた蓬髪は、火に炙られたかのように一本一本が縮れている。
だが呂酸が目を剥いて驚愕したのは、巨漢の体躯のせいではなかった。
黒い。
顔から胸元から手足の先まで、何から何まで黒いのだ。燦人の浅黒さなど、比較にならない。
まるで頭から墨でも浴びたかのような、漆黒というしかないその顔には、窪んだ眼窩の奥に大きな目ばかりが際立って見える。高いと言うより大きな鼻は、鼻腔まで大きい。その下にはこれも大きな肉厚な唇が、真一文字に引き結ばれている。
真っ黒な彼の顔からは、表情も窺えない。唖然としたままでいる呂酸に、条猪が嬉々として告げた。
「こいつがおぬしに見せたかった、闇充だ。どうだい呂大人、お眼鏡にはかなったかね?」
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