二之四

「この木札に描かれただけでも十分恐ろしさは伝わるが、精緻と呼ぶには無理がある。より大きな紙に描かれた変怪へんげを見たい」

 多嘉螺たからの希望を聞いて、呂酸りょさんは内心でほくそ笑む。もちろんおもてでは、恭しく畏まってみせることを忘れない。

「承ってございます。ただしより大きく精緻にとなると、それなりに値も張りますが」

「構わん、言い値を払おう。ああ、それ以外にひとつだけ注文がある」

 多嘉螺は鷹揚に頷きながら、ひと言を付け足した。

「仕上がった絵を納める際には、揖申いしんも連れて参れ」

 絵師も伴えという多嘉螺の言葉に、呂酸は軽く眉をひそめた。

「今ではすっかり人を遠ざけて、工房にひとりで籠もり続けるような男です。お連れしたとして、ご無礼を働くのではないかと」

「案ずるな。そなたも見ての通り、私自身が礼から遠いところにおる。それに揖申には、求めて止まぬ報酬を与えられるだろう」

「と申しますと?」

 首を傾げる呂酸に、多嘉螺は瞳だけを動かして示す。彼女の視線の先には、おとなしく控える青年の姿があった。

「この男は如朦じょもうといって、私が知る限り誰よりも博識、およそこの世のあらゆる事象に通じておる。より詳細な変怪の絵があれば、揖申が欲するその名もわかるやもしれん」

「多嘉螺様は大袈裟です」

 如朦と呼ばれた青年は、困ったように苦笑した。だが決して主人の言を否定するわけではない。一見したところ、青年は呂酸よりもはるかに年若く見える。ただ時折り見せる仕草や所作は、ことごとくが自然だ。老練と言ってもいい。

 呂酸は自身が全国を飛び回って、相応の見聞を得てきた。彼のような若者に自分以上の知識があるのかという思いが――如朦ににこりと微笑み返されて、そんな疑念はたちどころに吹き飛んでしまった。

 もしやするとこの青年なら、あるいは揖申の長年の問いに答えられるかもしれない。一瞬でもそんな考えが脳裏を掠めたからには、呂酸も多嘉螺の言葉を否やとは言えなくなった。

「承知しました。完成した絵を持って、揖申と共に伺いましょう」


 ***


 呂酸りょさん揖申いしんと連れだって再び多嘉螺たからの屋敷を訪れたのは、前回の招きから半年近く経ってからのことであった。

 揖申という男は、痩身に纏う衣装こそ上等であるものの、伸びきった髪の毛は顔にかかる分だけを無造作に頭頂で結わき、痩けた頬ばかりが目立つ面立ちには落ち窪んだ眼窩から血走った目が覗き、呂酸の傍らになければ不審者として取り締まられてもおかしくない風体である。こんな男を伴うことに呂酸には一抹の不安があったが、屋敷では前回同様に珍品奇品に埋もれた離れに通されて、多嘉螺も如朦じょもうも揖申の姿に嫌な顔ひとつ見せない。

「待ちかねたぞ、揖申。その手にあるのが、変怪へんげの絵だな?」

 揖申は両手の内に、黒い長軸を通した巻物を大事そうに抱えている。多嘉螺に指差されて揖申はおどおどと頷きながら、その巻物を彼女の前の床に置いた。

「その名を知れるやもと聞きましてこの揖申、これまで以上に精魂を込めて変怪を描き上げました。どうぞご覧ください」

 揖申はところどころつかえながらも、多嘉螺と如朦をほとんど睨みつけるようにして言うと、おもむろに巻物の紐を解いた。

 大の大人の背丈以上の長さがある、長尺の巻物だった。上質な画紙の上に最初に見えたのは、まるで分厚い羽毛扇のような巨大な尾びれ。そこから徐々に見えるのは、一枚一枚が巌のように硬そうな鱗が覆う、大蛇の如き長大な身体。だが大蛇にはない、猛禽の足にも似た四肢には、鳥獣と異なって巨大な鉤爪がそれぞれ五本も生えている。変怪は空を舞っているのだろうか、背景に描かれているのは雷光が迸る黒雲らしい。見るからにおどろおどろしい絵の最後に、変怪のこうべが現れた。

 顔つきは馬のように長い。だがその口は鰐のように大きく開いて、連なる牙が禍々しい。一方で耳の上から生える、鹿のように巨大な二本の角は、複雑な造形が神々しささえ醸す。鼻先から垂れるなまずのように長い髭は、優美にすら見える。

 そのいずれにも増して見る者の目を捉えて放さないのは、こちらを睨みつけるような変怪の目玉だ。圧倒的な暴力と、人には測り知れぬ理不尽と、それらを当然のように行使する傲慢。およそ人知の及ばぬ全てを凝縮させたようなその目には、墨絵であるはずなのに黄金色の輝きが宿って見える。

 しばし言葉もなく絵を覗き込んでいた多嘉螺は、やがて身震いしながら、驚嘆の声を漏らした。

「見事だ、揖申」

 多嘉螺の言葉に、呂酸は我がことのように頷いた。今まで彼が見てきた中でも、この絵に描かれた変怪はとりわけ生気に溢れ、いつ動き出してもおかしくないほどに思える。

 だが彼の傍らにある揖申は、多嘉螺の賛辞に低頭しつつも、その顔には不満が燻って見えた。

「お褒めに預かり恐縮です。して、この変怪の名はいかに」

 揖申の問いに、多嘉螺は目を細めて「そう急くな」と答えた。

 彼女の傍らでは、如朦青年が無言のままに絵に見入っている。如朦は細い目を微かに開いて、長尺の絵を何度も首を左右にして眺めていたが、やがてふと動きを止めた。

「木札を拝見した時からもしやとは思いましたが、どうやら間違いありません」

 彼が口にしたその台詞に、揖申の血走った目が見開かれる。多嘉螺も呂酸も注目する中、如朦はそろりと顔を上げた。

 その表情は相変わらず、穏やかなままだ。

「ここに描かれた変怪と同じものを、何度か目にした憶えがあります」

「なんと」

 呂酸が驚きの声を上げた。その隣では揖申が身を乗り出して、如朦に食いつかんばかりに問う。

「そ、それで、こいつの名は?」

「私の記憶では確か、『りゅう』と呼ばれておりました」

「りゅう……」

 如朦が告げたその言葉の、響きを噛み締めて咀嚼するかのように、揖申が「りゅう、りゅう」と繰り返し呟く。『りゅう』などという名の変怪を、呂酸は聞いたことがない。だが揖申が口にし続けるその名を聞く内に、絵の中の変怪は『りゅう』でしか有り得ないように思えてくる。

「如朦、『りゅう』とはどのような字を書くのだ」

 多嘉螺に尋ねられると、如朦はいつの間に用意してあったのか、手元に墨と筆を引き寄せる。そしてこれまたどこから取り出したのか、先日入手した魔除けの札の裏に、さらさらと筆を走らせた。

 そして広げられた巻物の、その横に如朦が差し出した木札には、『龍』と書き下されてあった。

「……そうか。お前の名は、りゅうというのか」

 自らが描いた凶相に、口づけんばかりに顔を寄せる、揖申の痩せこけた頬に涙が伝う。長年思い焦がれてきたに等しい、変怪の名をついに口にすることができた彼の胸中はいかばかりであろう。「龍よ、龍よ」と何度も口ずさみながら、ひび割れた指先で画紙をなぞる揖申を、多嘉螺は咎めない。

 彼女の態度に甘えて、呂酸もまた揖申の奇行を制しない。悲願を果たした絵師の姿を、むしろ感慨深げに眺めながら、呂酸にとって気にかかったのは如朦の物言いであった。

「如朦様は、いったいこの龍とやらを、どこでご覧になられたのですか?」

 すると如朦は微笑をたたえつつ、小さく首を振った。

「私も実物を見たことがあるわけではありません。私が目にしたのは、揖申様が描かれたのと同じような絵画や彫像などです」

「それはますます不思議だ。私はこれでも天下を遍く旅して回ったつもりでおりますが、龍という変怪も、その絵画彫像の類いも見たことがない。果たしてどちらにいけば拝見できるものか、差し支えなければお聞かせ願え――」

「呂酸」

 思わず畳みかけるように訊き急ぐ呂酸を、多嘉螺が制した。

「それ以上は野暮というものだ。私の口からひとつだけ申すなら、この世とは常夢とこゆめのみならず」

 多嘉螺は脇息にもたれかかりながら、胡乱げな表情の中で片眉だけをわずかに跳ね上げて、呂酸の顔を覗き込んでいる。

「後は察せよ」

「ははあ」

 呂酸は釈然としないながらも、そう答えるほかなかった。


 ***


 変怪の名を知るという大願が成就して、張り詰めた精神が弛緩してしまったのか。揖申いしんはそれから間もなくして息を引き取った。工房が余りにも静かであることを訝しんだ呂酸が、中で眠るように亡くなっていた彼を発見したという。

「死せる揖申の思いが、天下に散らばったのだろうか」

 珍品奇品の離れの襖を開け放って、月光を浴びつつ杯を呷る。中庭を見るともなしに眺めながら、多嘉螺たからがぽつりと呟いた。

 揖申の死後、正体不明の巨大な変怪へんげを目撃したという噂が相次いでいた。変怪の出没は南天大陸の紅河こうが余水よすい碧江へきこうにとどまらず、内海や東外海とうげかいにも及ぶ。およそ天下のありとあらゆる場所で、示し合わせたかの如く一斉に出現した変怪は、ごく当たり前のように『龍』と呼び倣わされていた。

「龍と名づけられたことで、変怪もこの世に棲み家を得たということなのでしょう」

 そう答えてから、如朦じょもうもまた酒を満たした杯を軽く啜る。

 月夜に共に酒杯を交わす様は、とても主従の関係にあるふたりではなかった。

「だとしたら、龍の名を与えたお前に責があるぞ」

 多嘉螺は杯を持った手を突き出しながら、その顔は口ほどに詰るわけでもない。むしろ愉快そうな笑みを浮かべる多嘉螺に、如朦は苦笑を返した。

「そう仰られるなら、世にも稀なる変怪を見たいなどと望まれた、多嘉螺様こそでしょう」

「望むだけで責を問われるとは、我ながら難儀なものよ」

 物憂げな顔で大袈裟にため息をついてから、多嘉螺がおもむろに杯を呷る。空になった杯に、如朦は酒を注ぎ足しながら言った。

「そもそも名づけでいえば、私に如朦と名づけた多嘉螺様はどうなるのですか」

「思いつきでつけた名だ、そう大層なことではない。それでもお前の言を借りれば、お陰でこの世に据わりが良くなったということか」

 すると如朦は神妙な顔つきで、酒器を床に置いた。

「名も無き私に呼び名を与えてくださった多嘉螺様には、どれほど感謝しても足りません」

 低頭する如朦を前にして、多嘉螺は見飽きたとばかりに横を向いた。

「所詮仮初めの名だというのに、お前はいつまで有り難がるつもりだ」

「名前というのはそれほど大事だということですよ。ことに自分以外の誰かから与えられた名であれば格別です」

「大袈裟な奴め」

 如朦から視線を逸らしたまま、多嘉螺は再び杯を呷る。

「飲みすぎではありませんか」

「眠気が訪れぬのだから、代わりに酔うぐらいは大目に見ろ」

 呆れ顔の如朦の苦言に、多嘉螺は空の杯を振りながら笑った。

「そんなことより龍だ。私はまだ実物を見ていない。望みが果たされたというには程遠いぞ」

「揖申様の絵は、実物にも勝る迫真の出来かと思いますが」

「そういうことは、実物を目の当たりにしないことには言い切れまい。お前だってわかっておろう」

 細い指が、月光に照らし出された口元に触れる。酒精混じりの吐息混じりに、多嘉螺の唇が告げた。

「私がこの目で龍の姿を認めるまでは、龍はあちこちで暴れ回るのだろうよ」


(第二話 了)

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