二之三

 揖申いしん碧江へきこうの支流沿いにある、湖荘こしょうという村の出である。

 彼の家は湖荘一帯の田畑を多く所有する富農であった。その跡継ぎとして生まれた揖申は、幼い頃から絵筆の才があった。

 絵筆に必要な墨も紙も高級品だから、庶人には気安く手が出せるものではない。幸い揖申の実家には、彼が絵筆を嗜むことを大目に見る程度の余裕があった。気の向くままに彼が筆を振るった絵は身内だけでなく、周囲の人々にも評判を博す。それがやがて地元の有力者の目にも留まるようになると、揖申はいずれ絵筆で独り立ちするのではないか、などと噂された。

 当時の揖申が絵師を生業とするつもりがあったのか、それはわからない。ただ家業をよく手伝いながら、合間に筆を走らせるという彼の日常は、ある日を境に一変する。

 その日、たまさかひとりで隣村に遣いに出ていた揖申は、帰りに嵐に見舞われた。風雨の中を進みながら、なんとか碧江の支流沿いの高台までたどり着いた彼の眼下では、河が荒れに荒れていた。

 普段見慣れた河川敷はほとんど黒ずんだ水に覆われて、川幅は常の倍以上にまで膨れ上がり、ますます水かさを増していく。足下まで及びそうな勢いの濁流に、揖申の目は釘付けとなっていた。

 目の前には、荒れ狂う激流の中で巨体をくねらせる、変怪へんげの姿があった。

 いったいどれほどの長さであり、太さなのだろう。変怪はまるで、激流そのものであった。変怪が身体を震わせる度に氾濫する水が地を浸食し、くわと大きな口を開けば嵐以上の強風が辺りを薙ぎ払う。むしろ変怪がのたうつからこその嵐なのではないかとも思う。

 揖申はその場から一歩も動けず、信じがたい光景から目を離せない。その内に、変怪のこうべがむくりともたげられた。長い顔つきに巨大な口、頭にはこれまた巨大な二本の角、鼻先から垂れる長い髭。どれも一度見たら忘れようもないが、何より彼の脳裏に刻まれたのは、ぎょろりとした黄金色の目玉。その獰猛な目に睨まれた途端、揖申はすっかり腰砕けとなった。

 思わずへたり込んだ揖申の目の前で、変怪の巨体がついに河から立ち上った。変怪は豪雨を降らせる黒雲に向かって、真っ直ぐに飛び立っていく。小高い山ほどもありそうな長大な身体は、悪天候などものともせずに悠々と空を舞い、やがて黒々とした雲の中へと消えていってしまった。

 いつの間にか嵐が止んでからも、揖申はなおもその場で呆けていたという。

 あれはいったいなんだ。果たしてなんという名の変怪なのだ。

 ようやく立ち上がった揖申は、そればかりを考えながら家路を急いだ。だが帰宅した揖申が濁流で見たものを語っても、家族は信じてくれない。誰も、そんな巨大な変怪を見たことも聞いたこともないという。ならばと彼は、自慢の絵筆で記憶にある変怪を描いてみせた。

 揖申の画才は、おそらくその時、真に開花した。

 描き上げられた変怪の絵を見て、ある者は顔をしかめ、ある者はひいと声を上げておののき、目を背ける者さえあった。幼子は見た途端に泣き出した。彼らは様々な恐怖の態度を示しながら、皆が一様に「こんな恐ろしい変怪など見たこともない」と言う。

 それほど真に迫った変怪を描いたことに、揖申が満足できれば良かった。しかし彼が描き上げたのは、あの禍々しい変怪の正体を知るためだった。

 誰もが見たこともないと口を揃えるのは、きっとまだ自分の画力が不足しているのだ。もっと精緻に、もっと詳らかに描いてみせれば、きっとあの変怪の正体もわかるに違いない。

 それ以来、揖申は変怪の絵ばかりを描き続けるようになった。

 かつて描いた賑やかな村祭や華やかな衣装を着飾った娘たちなど、一切興味を示さない。それだけでも気が触れたと噂されるに十分だったが、挙げ句高位の役人の依頼まで無視するようになると、家族も彼を庇いきれなくなった。

 その頃には家業の手伝いも疎かになり、自室に籠もりきりで筆を振り回し続けていた揖申は、ついに家族からも見限られた。両親は妹に婿を迎えて家を継がせることとし、揖申は家からも村からも叩き出されてしまった。

 村を出た揖申は、碧江を遡りながら彷徨い歩いた。変怪が碧江を下っていく様を思い出し、もしや上流にねぐらがあるのではないかという一縷の望みにかけたのだ。着の身着のままで、瞳には狂気すら漂わせながら、揖申は川沿いを遡っていく。道中で賊にも襲われなかったのは、狂人然とした足取りのせいかもしれなかった。だがろくに口にするものも無いままで、どこまでも歩き続けられるはずもない。揖申は川縁で力尽き、そのまま泥のように意識を混濁させていった。

 次に気がついたとき、揖申は付近の住民の家屋の中であった。行き倒れている揖申を見つけた村娘が、父を呼んで彼を助けたのだ。衰弱しきった揖申を、父娘は懸命に看病した。彼らの心優しさに触れる内に、彼の内にとぐろを巻いていた変怪への妄執も、いつしか洗い流されていく。

 やがて恢復した揖申は、恩返しすべく父娘の田畑仕事を手伝った。元々家業をよく習っていた揖申は、実家の知識経験を活かして父娘の田畑をより豊かに、大きく広げていった。揖申の働きぶりを喜んだ父親が、彼を娘の婿にと考えるのは自然な流れであろう。娘も憎からず揖申を想う素振りを見せ、揖申もまたこの地に骨を埋める覚悟を決めようとした頃のこと。彼らのいる村を訪れた旅人があった。

 旅人は、揖申の絵師としての噂を知る商人であった。

 彼は揖申が実家を追放された下りも聞き及んでおり、そこまでおそろしげという変怪の絵なら都の好事家も求めるだろう、是非商いたいと申し出る。揖申は渋るが、商人が結構な報酬を約束するというので、父娘が乗り気となった。ふたりにせがまれて揖申はやむなく筆を取り――その瞬間から再びあの妄執が、彼の心身を支配した。

 昨日まで田畑仕事に精を出していた素朴な青年が、部屋に籠もって一心不乱に絵筆を振るう。それだけでも、父娘が血相を変えるには十分であった。そして彼が寝食も忘れて描き上げた絵に表れたのは、身の毛もよだつような凶相の変怪。

 その絵を目にした父娘は、最早揖申に近づこうとはしなかった。

 商人は絵の出来映えに感嘆して、約束以上の報酬を支払った。だが揖申は報酬をそのまま父娘に手渡すと、商人と共にその地を離れた。

 彼が旅立つ際にも、父娘は家屋の内に隠れたまま、引き止めることはなかった。


 ***


「その旅の商人というのが、そなたか」

 多嘉螺たからの皮肉めいた指摘に、呂酸りょさんはただ軽く口の端を上げてから、既にぬるくなった茶を啜った。

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