二之二

多嘉螺たから様もあの札をご存知でしたか。これは恐縮です」

 呂酸りょさんの畏れ入った体は、無論見せかけである。多嘉螺の問いは、屋敷に招かれたときから想定していた。

 というよりも、他に心当たりがなかった。

「私も取り寄せてみたが、噂になるだけあって、なかなかに恐ろしげだ」

 そう言うと多嘉螺は、背後に積み上げられた品々の中に手を伸ばしたかと思うと、にいと笑みを浮かべながらまた振り返った。その手には一枚の木片が握られている。

 一尺そこそこの長さの木片に描かれているのは、一見したところ蛇のように見えるが、鉤爪を生やした四肢が明らかに蛇ではない。何より鰐のように大きな口と、見る者を射貫くような獰猛な目は、魔除けを謳うのも頷ける迫力だ。

「この小さな札から、まるで飛び出してきそうな生気がある。絵師の技量もただものではないな」

 多嘉螺の絶賛に、呂酸の口元が得意げに綻ぶ。

「そう仰っていただければ、絵師も喜ぶでしょう」

「ところでここに描かれているのは、なんという名の変怪へんげだ。このような変怪、私は寡聞にして知らぬ」

 多嘉螺の問いは話の流れからいってなんら不自然ではなかった。だが呂酸は一瞬瞼を伏せてから、やがて小さくかぶりを振った。

「存じません」

 呂酸の答えに、多嘉螺の細い眉が軽く跳ね上がった。

「知らぬということはないだろう」

「私も変怪の名を知りたいひとりなのですよ。ですが絵師がこの絵を描くようになったのも、元々は彼が目にしたこの変怪の名を尋ねるためだそうで」

「ふうむ」

 変怪の名がわかれば、呂酸としてはより売り出しやすいだろう。彼があえて変怪の名を伏せるということはありそうもない。

「しかし、そなたどころか絵師すらその名も知れぬ変怪とは、まるで――」

「神獣の如し、ですか」

 多嘉螺の言葉尻を受けて口を挟んだのは、彼女の脇で澄まし顔で控えている、あの案内役の青年であった。

 従者が主人の言葉を遮って発言など、分をわきまえないこと甚だしい。だが多嘉螺は咎めるでもなく、むしろ愉快そうに目を細めて青年を振り返った。

「さもあろう。その真名を秘されるといえば、誰だって神獣を思い浮かべる」

 人々は生まれたときから、この世は神獣が見る夢の中であると聞いて育つ。中でも真名に関する逸話を知らぬ者はいないだろう。

 いわく、耀ようの地底湖に眠り続ける神獣も、その真名を呼ばわればたちどころに目を醒まし、途端にこの世は泡と消える。

 故に真名は誰にも秘されて、知る者はなし。

「神獣も変怪も、名無しの人外であるところは同じだ」

「もしや多嘉螺様は、この変怪こそが、常夢とこゆめの世を産み出した神獣かもしれないと」

「似通うところはあるだろう」

「この札に描かれる変怪は目を見開いておりますから、さすがに無理がございませんか」

 ふたりの会話を聞いていた呂酸は、そこで恐縮しながら口を挟んだ。

「いえいえ、そんな滅相もない。一介の絵師が描く変怪が、まさか神獣の現身うつせみだなど、あまりにも畏れ多い。あれは揖申いしんが目にした、河に棲まう変怪に過ぎません」

「揖申というのは、その絵師の名か」

 多嘉螺の問いに呂酸が頷く。すると多嘉螺は傍らにあった脇息を前に置き、両肘を乗せて身を乗り出した。

「その揖申とやらは、あの札に描かれた変怪をその目で見たことがあるのか。いったいどこだ。紅河こうがか、余水よすいか」

 多嘉螺の両の目に、好奇心が顕わになる。この婦人の興味を引くのは、どうやら札の効能ではなく、変怪そのものであるらしい。

「いずれでもありません。多嘉螺様は碧江へきこうをご存知でしょうか」

 呂酸が挙げた河の名前に、多嘉螺が眉をひそめて首を傾げる。代わりに答えたのは、彼女の傍らの青年であった。

桓丘かんきゅうの南から発して、さんを通じて東外海とうげかいに注ぐ河ですね。稜にいるとあまり縁がないかもしれません」

「よくご存知で」

 青年の言葉に頷きながら、呂酸は言った。

「変怪について申すには、揖申という絵師の生い立ちを抜きには語れません」

 話が長くなると察したのだろう、さりげなく青年が注ぎ足した茶をひと口啜ってから、呂酸は口を開いた。

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