第二話 名も知れぬ変怪を描く絵師の話

二之一

 びん王・枢智黎すうちれいが崩御して、しばらく後のこと――


 南天と北天というふたつの大陸の間に、東西に横たわる内海がある。紅河こうがは、南天大陸をうねるように貫きながら北の内海に注ぐ大河だ。

 南天一の大国・びんの大動脈ともいえる紅河には、旻のみならず様々な国の船が往来する。河上を行き交う数が百を超える日も珍しくない、多くの船は紅河の半ば、支流となる余水よすいとの分岐に位置する都・りょうを目指す。

 十万を優に超える住人を抱える巨大都市にして、南天でも最大規模の川港を備える稜には、文字通り世界中の人品が流入する。元来経済都市として栄えてきた稜だが、旻の都となり、また数十年来は大きな戦もなかったことで、近年はますます絢爛の一途をたどっていた。

 今日も港に面した街並みには物を商う人で賑わい、さらに彼らを相手にした地元の人々で溢れ返って、押し合いへし合いの様相を見せている。

「さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!」

 街頭で客を呼び込む声量がひときわ大きいのは、潮焼けした顔に目一杯の愛想を浮かべた男の声だ。彼の目の前には路上に敷かれた布地と、その上にいくつかの木片が並べられている。

「魔除けにも強盗退散にも、これ一枚あれば間違いない! 凶相の変怪へんげを描いた札は、残りわずかだよ!」

 木片を前にした男の周りには、結構な数の人だかりができていた。どうやら彼の言うお札とは、そこそこの評判を得ているらしい。

「あんた、そいつは例の、どんな凶事も追い払うっていう噂のお札かい?」

 人だかりの中から中年の男が尋ねると、潮焼けした男はにいっと笑った。

「よくご存知で。巷じゃ模造品が出回っているが、こいつは正真正銘、りょ大人から仕入れた魔除けの札さ」

「あんた、呂大人と取引があるのかね」

「おっと、俺はこれでも呂酸りょさん様の店で下積みを重ねてきたんだぜ。この度独り立ちするに当たって、餞別代わりにこのお札を融通してもらったってわけさ。そういうわけで皆々様、この俺の門出祝いを兼ねて、ぱーっとお札をお求めいただいてはくれないかね!」

 男は乱杭歯を覗かせながら、愛嬌たっぷりに笑ってみせる。そのぬけぬけとした売り文句に絆されたのか、尋ねた男を皮切りに、札は一枚また一枚と売れていった。

 客のひとりは札を受け取ると、そこに描かれた絵を見て思わずしかめ面を浮かべてから、男に尋ねた。

「この恐ろしげな変怪は、いったいなんてえ名前なんだ?」

 すると男は一瞬きょとんとしてから、再び乱杭歯を見せつけるように笑った。

「そいつの名前は俺も知らねえよ」

「名前も知らねえ変怪の絵札を売りつけてるのか。呆れたね」

「何言ってんだい。耀ようの穴底で眠る神獣だって、真名を知る者はないっていうじゃねえか。名も知れぬ変怪こそ恐ろしいのが、この世の常さ」


 ***


 稜の城市は、さすが旻の都だけあってその規模も大きい。巨大な外郭に囲まれた城内は百以上の区画に分かれ、それぞれ宮城、大廟堂、市場、庶人街区などに割り当てられている。

 広大な宮城は城郭の南面に位置し、その北には庶人街区が延々と広がり、その一部には食い込むような形で、これまた巨大な市場がある。

 これらの三区画がちょうど接する一帯は、荘厳と活気と猥雑とが交差するような、稜城内でも一種独特の雰囲気に満ちている。とりわけ不思議な空気を醸し出す、一角でもやや庶人街区寄りの位置に、とある貴人屋敷があった。

 塗り固められた土壁に囲まれて、正面には朱塗りの門構え。中の庭園に植わっている梅や桃の木が塀越しに覗く。敷地はやや小ぶりだが、周囲は常に丁寧に掃き清められて、家人の目が行き届いていることがわかる。いずれも人目を引くほどのことはなく、屋敷そのものにはことさらに奇異なところはない。

 それでもこの屋敷に近寄ると、どういうわけかつい背筋を伸ばしたくなる、というのが城内の評判であった。

 そのお陰かどうか、屋敷の周辺は稜城内でも極めて治安が良い。夜分などは遠回りしてでも屋敷沿いの道を行く者も少なくない。

 その日、正午を一刻ほど回った折に屋敷を訪れた呂酸りょさんも、門の前に立ったところで思わず衿を正さずにはいられなかった。

「ようこそいらっしゃいました」

 中から呂酸を出迎えたのは、中肉中背に穏やかな顔立ちの青年であった。

「呂酸様にはわざわざご足労いただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、本日のお招きは光栄の至り。しがない商人にはもったいないお誘いと、恐縮しきりです」

「稜でも知る人ぞ知る呂酸様が、そうご謙遜なさいますな。ささ、どうぞお入りください。多嘉螺たから様がお待ちかねです」

 青年に促されて呂酸は門をくぐり、そのまま屋敷に上がった。先を行く青年の後に続きながら、商人の目で邸内を観察する。屋敷自体はこれまでに見た貴人たちのそれと相違ない、むしろこじんまりと言っても良い。

 ただ邸内のそこかしこにさりげなく散りばめられた、装飾品には目を見張るものがあった。

 たとえば屋敷の玄関に飾られた壺は、さんの品だろう。頑丈な造りと繊細な紋様という相反した要素を併せ持つ、一部で高く評価される壺だ。渡り廊下から見渡せる庭園は小ぶりだが、意匠の端々に品の好さが窺える。特に目を引くのは、池の傍らに据えられた御影石だ。もしやあれは北天のげんのさらに北、白野びゃくやの山奥から取り寄せたものではないか。全国を飛び回ってきたつもりの呂酸も一度しか見たことがないが、磨き抜かれたあの岩にはそう思わせるだけの輝きがある。

 そのほかにも、人によっては舌舐めずりしたくなるような逸品が、邸内に溶け込んでいる。

 どうやらこの屋敷の主人は、稜でも群を抜いた好事家らしい。そうと目星をつけた呂酸は、思いがけない商機の到来を予感して心中で早速算段した。もっともその好々爺としたした表情は、彼の内心を完璧に覆い隠している。

 やがて案内されたのは、庭園の先にある離れであった。青年が襖を開けると同時に得もいえぬ香りが漂って、呂酸の鼻腔を微かにくすぐる。香が焚かれているらしい、室内にはこれまでとは打って変わって、様々な物品の山が目に入った。

 本邸に飾られている逸品とは異なり、この部屋にあるのは良く言って珍品奇品といった類いばかりだ。それも、どれもこれも気儘に放り投げられたかのように転がったり、無造作に積み上げられている。そういった品々は部屋の外縁に押しやられて、中央には人が寛げる程度の空間がどうにか用意されていた。

 空間の奥では、有象無象の山を背にして、妙齢の婦人が座している。といっても傍らの脇息に片肘をつき、正座する足も崩していたから、呂酸は少々呆気にとられた。

 婦人が身に纏う曲裾の袍は上等な絹仕立て。白地に衿や袖口は赤く縁取られているところは奇をてらわないが、よく見ると白地の部分には万遍なく花模様が刺繍されている。それだけでも手のかかった装いで、彼女が高位かそれなりに裕福であるとわかる。

 しかしそれ以上に呂酸の目を引いたのは、彼女の面立ちであった。

 瓜実顔に白い肌、細く整えられた眉の下にはくっきりとした、だがどこか胡乱げな瞳が覗く。美しいといって差し支えない容貌の彼女の顔が、呂酸には初見であった。

 呂酸は稜の城市を拠点に、長年商いを営んできた。その取引先は庶人から貴族や王族までと幅広い。特に貴人層に顔が広いと自負していたから、稜で十分目立つであろう彼女を、多嘉螺という名すら知らぬままでいたことに、内心驚かずにはいられなかった。

「そなたが呂酸か」

 薦められるまま座した呂酸に、多嘉螺が尋ねた。低いが艶のある、耳に心地よい声だ。

「いかにも呂酸にございます。この度はお屋敷にお招きいただき、誠に恐悦至極」

「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしてくれ。私もこの通りだ、そなたも楽にしろ」

「ははあ」

 呂酸は苦笑にならない程度に微笑んだ。

 確かに多嘉螺の態度は、いかに貴人とはいえ客を招いた主人が見せるものではない。だが多嘉螺という婦人は、肩肘張らず力を抜いている方が余程自然に見えて、対面する呂酸も不快を感じない。

 高位者から居丈高に振る舞われたことも少なくない呂酸の目には、初対面にも寛いだ姿を見せる多嘉螺はむしろ新鮮に映る。

 そこへ、先ほどの案内役の青年が再び現れた。

 青年は用意したふたつの茶杯に茶を注ぐと、それぞれの前に差し出した。飴色に見える茶の湯からは、爽やかな匂いが香り立つ。ひと口啜ると清涼感のある微かな苦みが舌を浸した。いずれも呂酸には初めての香りであり味わいであるという事実が、さらに彼を驚かせる。

 青年は多嘉螺の脇に控えるようにしてそっと腰を下ろした。どうやら彼は、女主人の一の従者といったところか。青年が座したところで、多嘉螺が口を開いた。

「そなたを招いたのは他でもない」

 脇息に置いた左手を持ち上げて、そのぽってりと肉厚な唇の前に指先を当てる。多嘉螺の何気ない仕草は、少女が妖艶の真似事を楽しんでいるように見えて、呂酸もあと十歳若ければ見とれてしまったかもしれない。

 辛うじて理性で表情を保つ呂酸に、多嘉螺が目を細めて尋ねた。

「昨今城内に出回っておる、凶相の変怪へんげを描いた札。その卸元というそなたに、是非尋ねたいことがあるのだ」

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