一之四

「子が本当に己の血を継ぐか否か、その点で男は女以上の確信を持つことはできません。にもかかわらず男児が家を保つべしという伝統を、姉は嘲笑っているのではないか。もしかすると、姉は女系を中心に家を継承させようとしているのではないか」

 考えすぎではないか、と自分でも思う。しかし姉のあの表情と言葉が脳裏に刻まれてしまった今、黎は悩ましい妄想から容易に解き放たれない。

 滝壺の飛沫が、風に乗って微かに肩にかかる。黎は思わず身体を震わせた。

「世は移ろうものです」

 ふと口にされた青年の声は低かったが、不思議と瀑布の音にも掻き消されずに、黎の耳に届いた。

「たとえば今は重んじられる男系の尊重も、果たして未来永劫続くものかは誰にもわかりません。もしかしたら、いつか女系中心の世が訪れるやもしれませんよ」

「そんなことは、誰が許そうとも神獣が許しますまい」

 青年の言い様は、黎には聞き捨てならなかった。

「幾歳も重ねられてきたこの世のことわりは、人ひとりが思うままに覆しうるものではないでしょう。そんなことがあればこの世を夢に見続けてきた神獣は嘆き悲しみ、これ以上の微睡みを諦めて目を醒ます」

 そして神獣が目を醒ませば、この世は霧散して泡と消える。

 それは黎が幼き頃から言い聞かされてきたこの世の摂理である。この世に生きる人々は、神獣がいつまでも夢から醒めぬことを願って、その深い眠りを保つよう努めてきたのだ。

 だというのに目の前の青年は、長年の積み重ねが覆りうるというようなことを言う。仮にも神獣の現身うつせみが開いたという庵に身を置きながら、ありうべからざる言い草ではないか。

 黎の憤りを知ってか知らずか、青年の口の端には微笑がたたえられたままだ。

「この世は神獣の夢であるという言い伝えは、古来から深く人々に根づいております。ですがあえて言いましょう。それが真のことわりであるか否か、実のところ誰にも言い切れるものではありません」

 それどころかこの世の在り方そのものにまで疑義を示す、青年の言葉は傍若無人な姉の振る舞いに匹敵する。思わず腰を浮かせかけた黎を、青年はいつの間にか目の前に翳した掌で制した。

「神獣を信仰し、この世の安寧に努めようとする、その意気は貴重なものです。ですが信仰を盲信して旧習に倣うばかりでは、精神を囚われたも同様」

いにしえからのことわりを重んじるべしという私を、囚人と仰いますか」

「そもそも眠り続けるという神獣が、いったいこの常夢とこゆめの世に何を眺め続けてきたのか、黎様はお考えになったことがありますか」

 青年が発した問いは、黎の虚を突いた。

 それはあまりにも自明であると思えた。この世は神獣の夢から始まったのならば、神獣が見届けてきたものとは即ち、永き人の営みに他ならない――それ以外の答えを思いもつかない。

 黎の顔を見て、薄い笑みを浮かべたように見えた青年は、静かに語り出した。

「神官たちは、神獣に静謐な眠りを届けるため、民は安寧を保つべしと申します。ですが、いったいこの世で安寧を名乗れる時代がどれほどあったことでしょう」

「それは――」

「かつて南天から内海を経て北天までを支配していたという耀ようの国は、各地に配した王たちに叛かれました。そこから長い群雄割拠の時代を経て、ついに耀はびん王に屈しました。旻は南天の大国となりましたが、各地には未だげんさんいつといった雄国が健在です。今なお国や城市、村の間で争いは絶えず、この世が安らかである日は数えるほどでしょう。保たれるべき安寧など、どこにも有り得ないのです」

 これまでにこの世に繰り広げられてきた歴史がどれほど過酷なものであったか、淡々と述べる青年の口上に、黎は絶句するほかない。

「安寧とは無縁に移ろいゆくこの世の有様を、神獣は延々と眺め続けてきました」

「し、しかし」

 反論しようとして、だがそれ以上の言葉が口から出て来ない。青ざめるままの黎を見返す、青年は相も変わらず穏やかだ。

「目を覆いたくなるような阿鼻叫喚を、神獣はとうの昔に繰り返し目にしてきたのです。それまでに眺めてきたものに比べれば、姉君のご乱行もささやかなものでしょう」

 そう言い終えると、青年は最後にふうと小さく息を吐き出した。刹那、それまでさざ波ひとつ立たない湖面のようであり続けていた青年の顔に、ちらりと覗く感情があった。

 それは、長い年月を経てき固められた諦念の、微かなひと欠片が零れ落ちたもののように見えた。

「ああ」と、思わず声が漏れる。

 そういうことなのかと、黎はその時になってようやく腑に落ちた。

 途端に、滝壺に落ちるごうごうという水音が耳に飛び込んでくる。青年が神獣を語る間、黎の耳は瀑布の轟音もまったく捉えていなかったことに気がついた。

 額に手を当てて気恥ずかしそうに見せる青年は、既に穏やかな、だが若者らしい表情を取り戻している。

「いささか喋りすぎてしまいました。久方ぶりに客人を迎えて、私も少々気分が高揚しているようです」

 しかし黎にはもう、彼を一介の書生と見做す気はさらさらなかった。

「いえ」

 黎は背筋を伸ばすと、今一度青年の目を真っ直ぐに見返して、教えを請うた。

「神獣はこの世の艱難辛苦など、既に幾度も目にしてきた。ならば私はいかがすべきなのでしょう」

「黎様もまた、思うがままにあれば良いのです」

 青年の答えは、簡潔だった。

「黎様に限りません。常夢とこゆめの世に生み出された人々が、創造主たる神獣に対して果たすべきとはおそらく、人それぞれに様々な生があることを見せつけることでしょう」

「……それがどれほどおぞましい、悪夢の如しであっても、神獣には認められるのでしょうか」

 未だ踏ん切りのつかない黎に、青年は目を細めて言った。

「悪夢のひとつやふたつ、神獣にはよほど見慣れたものでしょう。そも夢とは、見る者にも思う通りといかぬもの。ままならぬ悪夢ばかりを見せつけられたとしても、神獣は嘆きこそすれ手を下す術はないのです」

「それでは、しかしあまりにも」

 哀れではないかと思うことが、はたして神獣という創造主に抱いて良い想いなのかどうか、黎には判別しがたかった。

「目の前にいかような光景が繰り広げられようとも、眺め続けることしかできない。それがこの世を夢に見るという神獣の、どうしようもない本質なのです」

 青年の言葉に黎は、姉がこれまで気儘に振る舞ってきた、その真意を突きつけられたような思いに打ちのめされた。

 神獣という存在に振り回され、縛られることなど本末転倒であるということを、もしかしたら彼女は知っていたのだろうか。その通りに思うままを極めた姉は、ついに視界から黎の姿を見失った。

「ただ、人は誰もその行い振る舞いを必ず神獣に見守られているという、それ自体が人々の心の拠り所にもなり得るのでしょう」

 だが、たとえ誰の目にも触れずとも、この世でのあらゆる所業を見守る神獣の目が存在するのも、また摂理。

「思うがままにあれば良いのです」

 青年が、今一度同じ言葉を口にした。

「神獣に囚われることなく、己の思うがままを見極めること。それこそが黎様の成すべきことではないでしょうか」

 青年の言葉に頷いた。頷きながら、自身の本心を、黎は徐々に見極めつつあった。

 賢人の庵を訪ねようとするほどの懊悩は、いったいいつから生じたものか。

 それが己の姿を映さない姉の瞳を見たあの日からであることを、黎は今さらのように思い出したのである。


 ***


 びんの女王・枢智蓮娥すうちれんがが弑されたのは、それから二年後のことである。

 枢智蓮娥は戦傷を受けて没した父王の跡を継いで即位した。王となった彼女は、その少女のように儚げな美貌とは裏腹に、徹底的な改革を容赦なく推し進めた。有力豪族たちの影響力を一掃して権力を掌握し、王の名の下に強大な軍事力の動員を可能とした枢智蓮娥は、最古の大国・耀ようをも征服して、旻を南天大陸随一の大国に押し上げた。これらの偉業を、枢智蓮娥は即位からわずか四年で成し遂げてしまった。

 神獣信仰の聖地でもある耀を、枢智蓮娥は滅ぼすのではなく保護するという形で、一都市に押し込めながら存続させた。神獣信仰は旻・耀にとどまらぬ、南天北天の各国にも根づいており、その庇護者である旻が大国として影響力を振るうためにも残すべきであった。代わりに、それまでは祭政一致で国家運営していた耀には信仰の象徴という役割だけを残し、まつりごとは旻が一手に引き受けるという、枢智蓮娥は祭政分離を果たしたという点でも画期的であった。

 ただ枢智蓮娥の手法は苛烈にして強引で、まつりごとを担うのはもっぱら彼女の優秀な側近ばかりであった。政権の中枢から追いやられた旧来の支配層や、征服された耀の神官勢力など、女王に反発する者は数知れなかった。そして枢智蓮娥が旻の都を桓丘かんきゅうから、紅河こうが畔にある旧耀領の大都市・りょうに遷すと、不満は頂点に達した。彼らは桓丘に棲まう弟太子を担ぎ上げて、女王を追い落とすことを画策する。

 枢智蓮娥より十七歳年下の弟太子は、名を枢智黎すうちれいといった。

 反女王派の企みは巧妙だった。まず桓丘で叛乱を起こし、枢智黎は乱を逃れて少数の随行者と共に稜に逃げ込む体を取った。そして桓丘を鎮圧すべく軍が派遣され、稜が手薄になったところで、枢智黎は現地の仲間と共に枢智蓮娥を討ち取ったのである。

 玉座で落命した女王は、最期まで弟の裏切りを予想だにしなかったらしい。その華奢な身体に、枢智黎自身が握る刃を突き立てられて、枢智蓮娥は茫然自失のままに息を引き取ったという。

 枢智蓮娥の死が伝えられると、そこから先は早かった。彼女の側近たちはいずれも優秀だったが、彼らが実力を振るうには枢智蓮娥女王という権威が欠かせなかった。側近たち個人に付き従う兵はなく、やがて全員が殺されるか追放された。

 かくして枢智黎が新たな旻王として即位した。彼は地方豪族を積極的に中央に取り立て、また耀の神官勢力への締めつけも緩和した。一方で枢智蓮娥が果たした祭政分離は堅持し、都も桓丘に戻すことはなかった。革新から安定への転換を図った彼の方針によって、その死まで続いた四十年余の治世は、平穏安寧であったと伝わっている。

 枢智黎は最期まで都・稜にとどまり、故郷の桓丘へは数度しか足を運ばなかった。ただ即位後間もなくして、彼は桓丘の東、山稜の麓にある竹林の保護を命じている。

「彼の地には、かつて私が教えを請うた賢人が棲まわれる。以後、誰も踏み入ること手出しすること、決して罷り成らん」

 王の指示は固く守られて、以後一帯の竹林は付近の住人たちにも畏怖を捧げられるようになった。

 やがて一帯が聖域として定着した頃、山間を旅する行商人が道を見失い、竹林に迷い込んでしまった。林の中を分け入った行商人は、不意に出現した滝壺の豪壮なことに驚いた。さらに辺りを見回したところ、崖の上に立つ小さな建屋を見つけた。

 行商人は道を尋ねようとして訪れたものの、そこに住む人の気配はなく、建屋自体もすっかり朽ち果てていた。ただ、建屋の周囲を回って見つけた桟敷には比較的新しめな卓が置かれ、その上にはつい先ほどまで使われていたかのような、ふたつの茶杯があったという。


(第一話 了)

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