一之三

 美しく偉大な姉の恥を、この青年に晒すことに躊躇いがあった。だがいつまでも己の胸の内に抱えきれぬと思い悩み、山に入ることを決意したのではなかったか。ついに賢人の庵を訪ねたからには、口にしないわけにはいかなかった。

「姉は二度嫁ぎましたが、いずれも夫に先立たれて家に戻って参りました。だからこそ当主の座を継ぐこともできたのですが、今もって独り身を貫いております」

「それは黎様に跡を引き継ぐために、あえてのことではありませんか」

 青年の言葉はもっともであった。姉が黎が成人するまでの中継ぎという立場をわきまえているのであれば、彼女が独身のままであることはむしろ賢明といえる。

 だがそうではないということを、黎は苦々しげに告げねばならなかった。

「姉は独り身である代わりに、情夫を寝所に招き入れるのです」

 口にするのも憚れるとばかりに、黎は青年から視線を逸らしておもてを伏せた。

「それもひとりやふたりではない。これまで姉が呼び寄せた情夫は、両手の指でも数えきれません」

「……それは、周囲もご存知なのですか」

 青年は啜っていた茶杯を卓上に戻すと、少しの間を空けてから尋ねた。控えめにされた問いに対して、黎は激した言葉が溢れ返るのをとどめることができなかった。

「ええ、ええ。ご存知どころか、情夫たちは今も姉の傍に侍り続けております。彼らは今では当主たる姉を支える、忠実で欠かせぬ部下として活躍しているのです!」

 そこまで口にした黎は最早耐え切れずに、これまでに溜め込んでいた胸の支えをひと息に吐き出した。

「我が家は今や、姉とその情夫たちが全てを取り仕切るようになってしまいました」

 旧弊を打破することに、姉は微塵も痛痒を感じない。積み重ねられてきた歴史も、経験豊かな長老も、姉は無意味と見做せば躊躇なく排除した。あの可憐な笑顔を浮かべた姉が指先で指し示す度、彼女の意のままに動く男たちがあらゆる障害を取り除いていった。

 そして本家はますます栄え、今なお絶頂を積み上げつつある。

「お家の繁栄を望むのであれば、当主に求められるものは決断と実行、そして過去に学びつつ過去に囚われない視点です。黎様の姉君は、当主として必要なものを兼ね揃えた方ということでしょう」

 姉の傍若無人な行状を聞いて、青年が口にしたのは嫌悪でも慰めでもなかった。旧例を無視して、思うままに振る舞うことで結果を出し続けてきた姉を評するには、彼の一言は最適なのかもしれない。

 だが、だからといって黎には到底納得できるものではなかった。

「しかし、屠られるべきではない伝統が、超えることの許されない限度というものがある」

 思わず卓上に拳を置く。弾みで茶杯が震え、中に残る茶が微かに揺れた。

「本家の伝統ばかりではない。いにしえからのことわりを疎かにすることは、神獣を軽んじるにも等しい。ですがそのように言上しても、姉はただ笑うのみなのです」

「神獣を」

 青年は、黎の言葉を繰り返すように呟いた。

 彼の穏やかな顔に浮かんだのは、黎が期待したような驚きではなかった。むしろどこか納得したような面持ちであった。

「なるほど、この世は神獣の夢であるということわりは、何よりもこの世に染みついた旧弊ともいえる。姉君が黎様の仰る通りだというならば、そのように考えることもありえるやも――」

「ありえません!」

 今度こそ黎は、強い口調で青年の言葉を否定した。

「いくら姉とて、この世のことわりまで否定して良いはずがない」

 当主の座を継ぐこととなった姉が、微笑みながら口にした言葉を、黎は思い返す。

「あなたが大人になる前に、私が全てを整えておきましょう」

 明るい陽の光を背に受けた姉の、年端もいかぬ弟から見ても愛くるしいとさえ思えた笑顔は、確かにそう言っていた。本家を最大限に栄えさせた上で黎に禅譲しようという意味だったのかと、素直に受け取ればその通りであろう。

 しかし今となっては、あらゆる旧弊を薙ぎ払って、更地にしてみせようという意味にも取れる。黎には最早、姉の言葉をそのまま額面通りに受け止めることはできなかった。

「そもそも姉は果たして私に当主の座を譲るつもりがあるのかどうか、今の私には確信が持てないのです」

 黎は決して当主の座を切望するものではなかった。自分の当主としての力量が、姉に勝るとはとても思えない。それは先ほど青年に語った通りである。だがそれとは別に、姉の本心が今どこにあるのか不明であるという事実は、不安に苛まされるに十分であった。

 興奮する黎を宥めるかのように、青年は落ち着き払った声で問うた。

「そこまで疑心を抱かれるような兆しがあるのですか。たとえば情夫と共に本家を乗っ取ろうとする企みがあるとか」

「いっそそのような企みがあるのであれば、情夫たちを追い出す口実になったでしょう。ですが姉は誰とも夫婦めおとになろうとはしません。しかも奴らはこぞって秀でた者たちばかりで、今や本家の柱石とばかりに振る舞う始末」

 姉を支える情夫たちの誰も彼もが、いずれ文武に優れた男たちばかりであるという点も、黎にはかえって不安の種であった。もし黎が姉の跡を継いだとして、あの男たちは果たして同じように自分を支えてくれるのだろうか。黎にはそのような未来が思い浮かばない。

「姉はもう生涯夫を持つつもりはなく、ただ優秀な子種だけを求めて情欲に耽っているように見えます」

 美しく、たおやかで、可憐な姉の白い身体が、獣欲も露わな男たちに貪られていく――自らにそう言い聞かせようとしても、黎は己を欺くことはできなかった。実際には逆なのだ。彼らの精も根も吸い尽くそうとしているのは、あの邪気のない笑顔で男たちを招き寄せる、姉の方だ。

 自分自身が発した言葉に喚起される想像のおぞましさに、黎は思わず嘔吐えずきそうになった。

 咽せる黎を見て、青年が慌てることなく茶を注ぎ足す。差し出された茶杯から、ややぬるくなった茶を喉を鳴らして呷る。その内に、黎は身体から興奮が洗い流されていくのを感じた。

 同時に醜態を晒したことへの羞恥が込み上げる。黎はおそるおそるおもてを上げてみたが、彼を見返す青年の顔に揺らぎはなく、口元に微かな笑みをたたえるのみ。その表情はあくまで穏やかで、まるで歳を重ねた者だけが持つ、深い経験に裏打ちされているようにすら思える。

 一介の書生としか見做していなかった青年に、いつの間にか黎は得もいえぬ風格さえ感じつつあった。

「昨年、姉はついに子を産みました」

 なお体内に残る興奮の残滓を振り払うように、黎は再び語り始めた。

「女児です。婚前子とはいえ、本家にとっては跡継ぎとなりうる子ですから、本来であれば男児が望まれるところでした。ですが姉は落胆するどころか、男児よりもよほど女児であることを喜びました」

「赤子の誕生は尊い。ことに母親にとって、出産とは命がけの大事です。生まれた我が子の男女いずれだろうと、我ら男が思う以上の些事でしょう」

「あの喜びようはそれだけとも思えません」

 黎の眉間に、深い皺が浮かぶ。

 出産を祝うために姉の元を訪れたのは、つい先日のことだ。姉は産後とも思えない、華奢で可憐な少女の如き見目は変わらぬままであった。

 だが型通りの祝辞を述べる黎に向かって見せた、あの思いがけない表情が、台詞が忘れられない。

「自らのはらから血を継ぐ者を産み出す悦びは、女にしかわからない」

 今までに見たことのない恍惚とした顔で、姉はそう言ったのだ。

 その言葉からは、母となったこと以上の意味が込められているように思えた。

 その瞳には、弟たる黎の姿など、最早映り込む余地がないとしか思えなかった。

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