一之二

「どなたかいらっしゃいませんか」

 建屋の前には申し訳程度の低い柵と、小さな門があった。門は簡素を通り過ぎて粗末な造りで、そのまま押し入ることも可能ではあったが、れいはその前で建屋の中に向かって声をかけた。小さな建屋はみすぼらしく、賢人の庵と聞いていなければ人が住んでいるとは思わなかったかもしれない。

 しばらく経っても、返事はない。今一度声を張り上げようかと黎が口を開きかけたところ、建屋の陰からひょっこりと覗いた顔があった。

「おや、お客様とは珍しい」

 水場で作業でもしていたのだろうか、布で両手を拭きながら現れた姿は、存外若い。もしかしたら黎よりも少々年上な程度かもしれない。だが細面に浮かぶ表情は思いがけず穏やかで、実は見た目以上に年嵩なのかもしれないとも思えた。

 一見したところ年齢不詳な青年は、おそらく賢人の下男だろうと思って、黎は背を伸ばして向き直った。

「突然の訪問、失礼致します。私は桓丘かんきゅうに住む、黎と申します」

「桓丘の、黎様」

 青年は顎先に指をかけながら、ふうむと頷いた。

「その黎様が、こんな山奥におひとりで何用でしょう。見たところ、山に生業を持つ方にも、街を渡り歩く商い人にも見えず」

「仰る通りです。私はこちらの庵におわすという賢人にお目見えしたく、慣れぬ山に入って参りました。何卒お取り次ぎをお願い致します」

「ほう」

 黎の言葉に、青年は細い目を軽く見開いてみせた。

「この庵に賢人がいると、桓丘ではそのように伝わっているのですか」

「桓丘ではあちこちで評判になっています。てっきり既に訪ねた者がいるかと思いましたが」

「いえ、こちらの庵を開いてから、訪ね人はあなたが初めてです」

 今度は黎が驚く番であった。では自分は、未だ誰も会ったことのない賢人を求めて、苦労して山中に踏み込んだことになる。

 これは、噂に振り回されてしまっただろうか。黎の脳裏を微かに過ぎった悔恨を、青年はまるで見透かしたかのように微笑んだ。

「せっかくわざわざお越しいただいたのです。何もないところですが、どうぞお上がりください」

 そう言って青年は奥へと通るよう手招きした。彼の言う通り、せっかくここまでたどり着いたのだ。ここで回れ右しては、それこそただの徒労に終わってしまう。黎は賢人と会えることを願いつつ、門の内に入った。

 青年は屋内に向かわずに、現れた時と同様に建屋の脇を通った。後に続いた黎は、角を曲がったところで一瞬息を呑んだ。

 そこにあるのは、竹で編んだ床敷の上に、これまた竹で編まれた天井が竹柱に支えられた、竹尽くしの桟敷であった。桟敷は建屋の一面から張り出して、ちょうど目の前の滝壺を見下ろせるようになっている。中央には簡素な卓と、対面するようにふたつの敷物が敷かれていた。

 青年は奥の敷物の上に座するよう黎を促すと、少々お待ちくださいと言い残して建屋の中へと姿を消した。

 ここは賢人と対面するための桟敷席なのだろうか。いや、この庵を訪れた客人は自分が初めてというのなら、滝壺を見下ろしながら飲茶するためなのだろう。きっと賢人とあの青年とふたりで、この見事な景色を眺めながら、自分には考えも及ばぬような問答を楽しむのに違いない。

 敷物の上に腰を下ろした黎は、左手に流れ落ちる瀑布の、その豪快とも幻想的ともつかない様に目を向けている間、とりとめもない考えを巡らせた。すると盆を持った青年が現れて、お待たせしましたと言いながら卓に茶杯を置く。

「お口に合えば良いのですが」

 そのまま青年が向かいの敷物の上に腰を下ろしたので、黎はおやと思った。

「では、わざわざこんな場所まで足を伸ばしていただいた、その目的を窺いましょう」

 青年に尋ねられて、思わず眉根が軽くひそむ。そうと気取られぬために、黎は差し出された茶杯を片手にとって、抱え込むように口につけた。茶の湯は葉の香りを極限まで引き出すまでに熱せられ、だが舌が火傷しない程度に熱すぎず、口にするには適度な温度に保たれている。さりげない、微に入った気配りを披露する青年の顔を、黎は茶を啜りながら眇めに見返した。

 つまり賢人にお目通りかなう前に、この青年に認められよということか。

 試されるようなやり方は黎の好みに合わないが、自分は伏して面会を請う身だ。ここは立場をわきまえねばならない場面だろう。茶杯をそっと卓上に戻すと、黎は改めて居住まいを正し、青年の顔を見返した。

「私が数えで七つの時、父が亡くなりました」

 黎は幼い頃の記憶を、ゆっくりと掬い上げるようにして、語り出した。

「私は父の跡を継ぐべき男子でありましたが、なにぶんまだ幼すぎたため、私が成人するまでは姉が代わりを務めることとなりました」

 黎には、ひとまわり以上年が離れた姉がいる。

 彼が物心ついた頃には既に二十代も半ばだったはずの姉は、にもかかわらず大層たおやかにして、触れれば折れそうに華奢。弟たる黎の目にも、まるで可憐な少女としか思えない見目の持ち主である。

 姉は黎の生前と三歳の時と二回結婚したが、一人目は戦死し、二人目は生まれたばかりの子と揃って流行病で命を落とし、二度とも死別している。父が亡くなった際、彼女はちょうど二人目の夫を失って実家に戻っていた最中であったことが、本家には幸いした。姉がいなかったら本家は相続争いで分裂し、今頃目も当てられないことになっていただろう。

 もっとも姉は見るからにひ弱で、周囲にしてみれば神輿以上の存在とは見なされていなかった。彼女は黎が成長するまでの中継ぎであるということを、誰も疑っていなかった。

 だがいざ当主の座に就いた姉は、その可憐な見目とは裏腹に、苛烈と呼ばれた父以上の辣腕を振るってみせた。

「姉の当主としての力量は、周囲の誰にも予想外でした。姉が率いる本家は父の頃をはるかに凌いで栄えました」

「それは、お家にとっては僥倖でありましたね」

 茶杯を手にしながらの青年の言葉に、黎は小さく顎を引く。

「仰る通りです。私は年が明ければ成人の儀を迎えますが、今となっては姉がそのまま当主で在り続けるべきかもしれないとも考えます」

 黎の言葉に偽りはなかった。姉の手腕は歴代の当主と比べても、おそらく群を抜いているだろう。そのような姉の跡を継いで事を成せるものか、黎には甚だ心許なかった。

「なるほど。黎様はご自身が優秀な姉の跡を襲うに相応しいか、いざその時を迎えて心に迷いがある、と」

「いえ」

 そうではないと、黎は軽く頭を振った。

「姉が私などよりはるかに優れた当主であることに、疑いはない。周囲が認めるならば、私は今後も姉の傍にあって支える立場のままでも良いと考えています」

「では何をお悩みですか。わざわざここまで訪ねるからには、きっと身近には打ち明けがたい相談事がございましょう」

「それは」と言いかけて、黎は口を噤んだ。

 果たしてこの青年にそこまで伝えてしまって良いものなのだろうか。卓上の茶杯に視線を落とし、次いで左手にごうごうと鳴り響き続ける、滝に目を向ける。滝壺に流れ落ちる大量の水は辺りに飛沫と靄を醸し出して、射し込む光を遮って漂うる様は、まるで宙に舞う絹布のようだ。

 滝に纏わるような靄の動きをしばし目で追う内に、黎は意を決した。

「姉には当主として、見過ごせない悪癖があるのです」

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