常夢の世に変怪が舞う
武石勝義
第一話 黎は竹林に庵を編む賢人に向後を問う
一之一
この世は
夢中の我らは 眠りを醒ますことなきよう 安らかなることこそ
未だ陽は高いはずなのに足下の暗い山中を、ひとりの少年が黙々と歩いていた。
少年は軽装に身を包んではいるが、肌に荒れたところはなく、また山道をゆく足取りも少々覚束ない。誰が見ても、高貴な出自の子息が慣れぬ山中に踏み入ったとわかるだろう。
少年の名は、
間もなく成人の儀を迎えようとする黎は、同年配の男子に比べていささか虚弱であることを自覚している。そんな彼が人里深い山々にあえて踏み入ろうと決めたのは、相応の理由があった。
――東の山の奥に、秘かに庵を編む賢人がいる――
屋敷の下男下女たちが交わすまことしやかな噂を聞きつけたのは、半年ほど前のことだろうか。最初聞いた折には半信半疑だった黎だが、噂は一向に止むことがないので、ついに彼は人手を使ってその真偽を確かめさせた。すると桓丘の街中でも、賢人の庵について語る者は少なくないという。やがて聞き集めた噂を繋ぎ合わせてみると、賢人は東の山の奥、滝壺の傍に庵を構えているということ。
そしてどうやら賢人とは、神獣の
南天北天の両大陸を問わず、そこに暮らす人々の大半は、この世が神獣の見る夢の中であると聞いて育つ。神獣が目を醒ませば、この世は泡と消える。だから人々は神獣の眠りを騒がさぬよう、この世の安寧に努めななければならないとは、神官たちが口を酸っぱくして唱える
神獣は、都の傍を流れる
神官たちより幼少から学んできた黎も、そのひとりだ。
「神獣の
賢人の庵が現実味を帯びるにつれて、黎は当然のように思い立った。
といっても東の山々を上ろうなどと言い出せば、家の者たちに止められることは目に見えている。そこで彼は信頼できる下男に馬車を用意させて、まだ陽も昇らぬうちに山に向かったのであった。
「それにしてもひとりきりというのは、我ながらちと無謀だったか」
肩で息をしながら、旅人が踏み締めただけであろう、道ともいえぬ道を行く。山の麓に下男を馬車と共に待機させて、単身で山に入ったことを、黎は少し後悔し始めていた。やがて傍らに見つけた大岩は、岩肌に苔がむしてぬるりとした手触りだったが、構わずに腰を下ろした。
頭上に覆い被さるように繁る木々のお陰で、幸い陽の光に体力を奪われることはない。だが代わりに霧深い山中には足下から湿気が立ち込めて、じっとりと汗ばむような蒸し暑さに満ちている。願わくばせせらぎにでも当たりながら、涼みたいところだ。
「このままいけば川沿いに出るはずなのだが」
黎は肩に背負った麻袋から竹筒を取り出すと、中の水に口をつけた。せめて小川の清涼を思い浮かべながら瞼を伏せて、ぐびと喉を鳴らしながら呷ってから、再び目を開くと――
周囲の雰囲気が、どこかしら一変しているように思えた。
何が違って見えるのか、自分でもはっきりとはわからない。だが先ほどまで先の見えない五里霧中にあったはずなのに、今はなぜだかこの道で間違いないという確信が胸の内を満たしている。
ぐるりと周りを見渡せば、行く先に竹林が繁っている様子が見えた。
はて、あんなものがあったか見覚えはない。しかしおそらくあの竹林こそが目指すべき地であると悟って、黎は力強く立ち上がった。
足元も覚束ない、形ばかりの山道を行く足取りが、不思議と軽い。そのまま半刻ほど歩き続けて竹林の中に踏み込むと、途端に空気が澄み渡ったような感覚に襲われた。耳を澄ませば、鳥の鳴き声や笹の葉擦れの音に混じって、どこからか滝の音が聞こえる。
さらに無心で歩き続けてどれほど経っただろうか。突然、行く手を塞ぐようにしなだれかかる竹を掻き上げると、そこに現れたのはごうごうと響き渡る立派な滝壺であった。見事な瀑布から迸る水飛沫がそこかしこを濡らし、滝壺には雲間から差し込む幾筋もの陽光が煌めいて見える。
唐突な光景に目を奪われながら黎が視線を泳がせれば、飛沫のちょうど届かぬ辺りに迫り出した崖の端に、ぽつんと乗っかって見える小さな建屋があった。
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