最終話 私とアイドル
帆夏ちゃんが止まった理由を聞いた私は、ヒロシさんの想いに共感した。
たしかに現代では「今、目の前のことを楽しむ」という感覚は薄れてきている気がする。画面越し、SNS越しでしか物事を見ることができなくなった。まるでそれに映る世界が本物で、現実が偽物であるかのような錯覚に陥っていたことに気付かされた。そういうものに囲まれて暮らしているうちに、周りからの評価や先のことばかり考えてしまうようになったみたいだ。
自分の目で見て、自分がどう感じるかで判断すること——そこから本当の楽しさが広がっていく気がする。私が初めて帆夏ちゃんを見たときがそうだったように。
かく言う私も、最近は帆夏ちゃんのファンを増やすことばかり考えて、純粋な気持ちで楽しめなくなっていたのかもしれない。私たちファンは、ずっと帆夏ちゃんを見ていたようで、実はちゃんと向き合えていなかったのかもしれない。そんなことを思った。
帆夏ちゃんが新宿の路上からいなくなり、半年が経った。
初めて帆夏ちゃんを見た氷点下の日は遠い昔のようで、今では真夏日の連続だ。
私は心のどこかにぽっかりと穴を開けたまま、しかし意外にも晴れやかな気持ちで今を過ごしている。
帆夏ちゃんに出会う前までは、同じことの繰り返しが延々と続くだけの、色の無い日々を過ごしていた。しかし最近は、自分が本当にやりたいことを探しながら、一日一日を大切に生きられるようになった気がする。
それでも未だ、初めて帆夏ちゃんを見たとき以上の衝撃には出会えていない。
夏の夜の新宿は、熱がこもる。立ち並ぶビルが日中に溜めた太陽の熱を逃さないのと、色欲にまみれた人の往来とで、クラクラとめまいがするほど蒸し暑い。
新宿駅東口から出た私は、じっとりと汗をかきながら西武新宿駅に向けて歩く。その道中、帆夏ちゃんがいた場所を見る。それが毎日のルーティーンになっている。
帆夏ちゃんがいなくなってから、その場所では他の誰かがライブをするようになった。ロックバンドのときもあれば、大道芸人のときもあった。しかし、帆夏ちゃんを初めて見つけた時の、あの輝きに勝る人はいない。
今日だってそうだ。帆夏ちゃんの代わりにいるのは、別の誰かで——
「うそ、帆夏ちゃん?」
私の目線の先には、たしかにあのオレンジ髪の帆夏ちゃんがいる。帆夏ちゃんの前にはヒロシさんもいる。まるで帆夏ちゃんと最初に会った日みたいだ。
私は思わず、帆夏ちゃんのところへ駆け出した。人の往来の流れをぶった切りながら、光が差す方向へ進んでいく。
「帆夏ちゃん!」
「あれ? その声は、美里ちゃんだ!」
私が声をかけると、帆夏ちゃんは私に気付いて元気に手を振ってくれた。
「こんにちは」ヒロシさんも私に挨拶した。
ヒロシさんの声は心なしか、以前より抑揚がついて明るくなった気がする。
「また、ライブ始めたんですか?」
私はヒロシさんに尋ねた。
ヒロシさんは「ええ、まあ」と、少し歯切れの悪い返事をした。そういえば今日は、初めて会った日と違って音楽が流れていない。
ヒロシさんは「俺、決めたんです」と前置きしてから話し始めた。
「もう一度、帆夏と一緒にアイドルにチャレンジしたいと思ってます。価値観の押し付けかもしれませんが、リベンジしたいんです。だから、帆夏のスペックは変わっていません。しばらく誰とも目を合わせないと止まります」
「それだと、また前みたいに帆夏ちゃんが暴走しちゃうんじゃないですか?」
「はい。だから、前とは少し変えようと思います。そのために今、俺たちはあなたを待ってました。あなたがいつも帆夏の隣にいれば、帆夏はアイドルができると思うんです」
一瞬ヒロシさんと目線を合わせた帆夏ちゃんは、私の目を真っすぐ見つめて、笑顔で言った。
「美里ちゃん、私とアイドルやらない?」
「え? あ、いどる?」
「俺からもお願いです」ヒロシさんが頭を下げて言った。
私は思わず一歩後ずさる。
「ちょっ、ちょっと待ってください。私、ですか?」
「そうです」
「え、でも、……どうして、私なんですか?」
私の質問に、ヒロシさんは「目ですよ」と答えた。
「私の、目?」
「はい。あなたが帆夏のライブに最初に来てくれたときから、俺はあなたの目を見てました。あなたの目は帆夏への憧れで満ちていました。それと同時に、今の生活を変えようと思っていても変えられない、もどかしさのようなものを、帆夏に投影しているようにも見えたんです」
たしかにそうだった。私は、何者でもない自分に嫌気が差していて、帆夏ちゃんに理想の自分を重ねていた。まさか、そんなにちゃんと話したことがなかったヒロシさんに、それを見破られていたとは。
「ヒロシさんって、何者なんですか?」
「俺は、ただのアイドルオタクなエンジニアです。ですが、アイドルを見る目だけはあると思ってます。よろしくお願いします」
ヒロシさんがもう一度、私に頭を下げる。帆夏ちゃんは私に手を差し出した。
「ほら、アイドルオタクのヒロシが言うんだから間違いないよ! 一緒にアイドルしよ?」
帆夏ちゃんの瞳は、初めて私たちが出会った時のことを私に思い出させる。
あの時は、少し特別な予感がして思わず帆夏ちゃんに近付いた。
そして今も、これから私がもっと楽しく生きられるようになりそうな、そんな予感がしている。
どうせこのまま生きても、輝いてる人を羨望の眼差しで見るだけの普通な人生だ。
しかし、普通に生きていても将来は不安なままだし、周りの人にどう思われるかなんて、どれだけ考えても分からないままだ。
それならいっそ、自分が思うようにやってみたい。
大切なのは、今の自分が何をしたいかだ。
私は初めて、自分の人生を自分の手で楽しくできそうな気がした。
帆夏ちゃんから差し出された手を握り返す。
その手は相変わらず硬いが、私の心の雪解けを祝うような温かさを感じた。
「私、アイドルやる! やりたい!」
私は思い切り叫んだ。
帆夏ちゃんが微笑む。
帆夏ちゃんの瞳に映る私の目は、馬鹿みたいに輝いていた。
〈了〉
新宿アイ・ドール 石花うめ @umimei_over
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