エニバディ

八田部壱乃介

エニバディ

 私は化粧が嫌いなの、と妻はよく言っていた。どうしてと聞いてみれば、彼女は決まってこう言うのである。

「自分が自分でなくなるような気がするから」──と。

 そんなことだから、皆がやっているからと言って拡張現実による、非年齢同一性技術アンチエイジングをすることはなかった。

 俺も今の今まで興味がなかったから、彼女とともに素顔を晒していたが、素性プライベートは隠すのが現在のマナーである。そのため、腫れ物のような扱いを俺たちは受けていた。

 それは別に、問題ではない。まるでセカイ系の主人公とヒロインみたいだ、なんて自虐ネタにできるからだ。問題というのは往々にして、問題視して初めて存在し得ることだから、それ以上、俺の生活に支障をきたすことはなかった。

 問題なのは──いや、問題視したのは、妻の方だった。彼女は化粧嫌いでありながら、疎外されることに耐えられなくなったらしい。高い志を持っていながら、不器用な人だったから、辛くなったのだろう。

 だからきっと。

 進んで自ら痴呆となったのだろう。


 向知性薬スマートドラッグを飲み干すと、俺は顔を上げて鏡を見据えた。


 鏡の前には、若々しい男が立っている。瑞々しくて肌艶もよく、皺ひとつない肉体は、しかし、触り心地とはまったく別の様相を呈していた。頬に触れてみれば、指先に溝が感じられる。それほど大きくも、深くもない。綺麗なはずの顔と、指から伝わる本当の俺の姿とが相反しながらも両立する。

 姿は二十代後半。

 だが本当の年齢は七十代半ば。

 そこに立つ俺は俺だが、あくまでも過去を再現した、俺の似姿なのだ──

 息を吸い込むと、思い切り吐き出す。

 躰の衰えを感じながら、俺は杖を掴んだ。視界の端に映る予定表には、今日が診察日である旨が記されている。ふと鏡を見れば、拡張現実にて作られた若い頃の俺が、杖を突いてみせている。それがあまりにもグロテスクなものだったから、思わず笑ってしまった。

 擬態したままの姿で外を出歩いてみれば、ぴちぴちの若人で溢れかえっているのがわかる。病院へ向かう道すがら、角から壁越しに人影が透けて見えた。拡現が近くに居る人間とぶつからないよう、死角に居ても見えるように配慮しているのだ。すれ違おうとしたが、当の若い女性に話しかけられる。年齢はわからない。歩行用外骨格を身につけていたが、だからといって老人であるとも断定できないから、詮索はすべきでないだろう。

 ……別にどうでも良いことか。

 それにしても、彼女と知り合ったのはいつだったろう。散歩コースが同じで、ばったり会うことが多く、いつしか話すようになっていた──ような気がした。始まりがどんなだったか正確には思い出せない。

 ただ、もう何度も話していることだけははっきりしている。そのお陰で話題も尽きており、俺から振る話題といえば、

「今日も暑いですね」とかそれくらい。

 彼女はといえば、俺が初めて擬態したことについて一度触れたきり、二十歳下の彼氏のことや、沢山居るらしい知り合いたちの話をして、あんなことやこんなことがあった、と一方的に捲し立てるように、自分語りする。

 俺はただ黙ってそれを流し聞き、今晩の料理はどうするか考えながら、人の好い笑みを浮かべて見せた。相手が満足したと見て取ると、機会を窺って、

「それではそろそろ」とお暇する。

 受付にて網膜スキャンをすると、お呼びがかかるまで席で待つ。左を見ても右を見ても──天然ものか養殖かは知らないが──若者で賑わっていた。多分、誰も彼もが姿を偽り、それぞれの人生を演出しているのだろう。これは偏見かもしれないが、しかし奇妙な世界だ。

 そう思いながら、壁に流れる見飽きた番組を睨みつけつつ時間を潰す。

 暫くして、自分の名前が呼ばれると、俺は補助席を立った。足腰に負荷がかからないよう、椅子が高くなり、自然と立ち上がれるのは素晴らしい技術だと思う。

「今日が何月何日かわかりますか」診察中にこれまた若い先生が、突然そう聞いてきた。記憶力を試しているのだ。俺は面食らったものの、確かな返答をしてみせ、

「合ってますか?」と首を捻ってみせる。

 返ってきたのは答えではなく、「ちゃんと向知性薬を飲んでらっしゃるようですね」との確認だった。

「記憶力ってのは薬の力なんですか。努力じゃなくて」

「努力ではないです」彼はパソコンを向いたまま言う。「努力も心も、遺伝子で出来ていますから。……では、血圧を下げる薬を出しときますね」

 診察を終えると、嗄れた声で決まりきった結論を言った。

 俺は素っ気なく礼を告げて、いつも通りさっさと部屋を出ようとしたが、不意に好奇心が湧いて、訝しむかもしれないとは思いながらも、躰は勝手に彼へ年齢を訊ねている。

「失礼かもしれませんが、貴方は何歳ですかね」

「変なことをお聞きになりますね?」先生は驚きつつも面白そうな目つきで、「実年齢ですよ。若く見えますか?」

「とてもお若いよ。お陰で俺も若くなった気がした。年齢同一性障がいが蔓延するのもよくわかるね」

 それじゃあと言って、俺は握手を求めた。彼は快く応じてみせ、手を握る。杖に手伝って貰いながら椅子から立ち上がると、膝に痛みがあり、よろめいてしまった。そうか、これは補助席ではないのか……。そろそろ歩行用外骨格を購入すべきかもしれない。

 扉が先生の姿を隠した頃には、成る程あの人も嘘がお上手だ、と心の中で密かに微笑んだ。

 家に帰ると、食事のたびに増える錠剤たちを一気に飲み干し、咽せると、堪らず水を口にする。何とまあ、情けない。そう思って苦笑した。

 暇だからと言ってラジオをかけたけれど、それでも退屈は凌げない。いや、つまらないことは良いことだ。繰り返しの日常にこそ、誰もが求めてやまない幸せがある。ふう、とため息をつくと天井を見上げた。この行為に特に意味はない。だから良いのだ。

 さて、端末から日々更新されていくニュースを見ようとして、老眼鏡をかけた。見えないからと言って文字を大きくすることもできたが、それでは何度もスワイプしなければならなくなる。ただでさえ乾燥しているというのに、これ以上指を動かせば、きっと摩擦で指紋がなくなってしまうのに違いない。

 拡現によって、空中や壁に画面を表示することもできるらしいが、変化ばかり続ける最新技術には追いつけず、未だ設定の仕方がわからなかった。だからやはり、やり慣れた方法へと戻ることになる。

 俺は茶を啜りながら、文字を目に焼き付けていった。すべての物事は文字へと置換され、やがて記憶へと成り代わる。これを諸行無常と言うのか、或いは言わないのかはわからない。わからないことだらけだが、少なくとも俺の時代は終わったのだ──ということだけは何となく理解できた。

 何事も古びていく。かつて夢見た未来も、量産された挙句に消えていった。ページを捲るように上書きされて、記憶は彼方に忘却される。俺はもう、自分の姿など覚えていない。しかしそれでも良いとさえ思う。どんな環境にも順応できるのは、人の良いところなのだ。

 かつて精神という言葉があったという。精神は不定形だから、逆説的に何者にもなれたわけだ。そしてだからこそ、様々な同一性障がいに悩まされることになる。例えばそれは、種族、性別、自己、そして年齢──だ。

 あらゆる問題は、問題提起によって生まれるものなのだろう。確定はできないが、拡張現実によってこれを──意識を惑わすことで、この世から不満はある程度無くなった。

 これは現実逃避の一種だったかもしれない。老化を否定アンチエイジングして、性別を否定アンチセクシュアリティして、種族を否定アンチヒューマニティして、自分を否定アンチマイセルフして──人間だけの世界を作ったことで、不自然アンナチュラルに理想的な社会が出来上がったのだ。

 何せそれが意識というものの役割だから。すべてに対するアンチ的思想が、恐怖によって現実を否定することで生まれたのが、物心──いわゆる自我という機能なのだから。きっと反抗期というのは、そのためにあるのだろう。

 ああ、しかし──精神が不定形だから何者にもなれる、という点にはひとつ反例があった。どう足掻いても精神は肉体に依存している。ならば精神は定形だ。彼女はきっと、その好例ではないだろうか……。

「やあ、来ましたよ」

 と、俺はまるで怒鳴るように言った。ベッドに横たわる若く美しい彼女──拡現によって化粧プロテクトが施された妻はしかし、俺のことがよくわからないのか、それとも聞こえていないのかもしれない──まるで無視するように天を仰いでいる。

「今日も暑いですね」

 目を見て言ったけれど、何も反応が返ってこない。寂しく、切ない時間だ。介護士が俺に気を使って、にこやかに何かを言っていたが、まるで耳に入らなかった。上辺で返事してみせるが、きっと心がここにないことなどバレていただろう。

 彼女に会うたび、人間に心なんて必要ないのでは、と思わされた。赤ちゃん帰りするかのように素直な感情で笑い、怒り、泣き、そして呆けている。意識は肉体の奴隷じゃないか。施設から抜け出すと、誰にも見られないよう、こっそりと泣く。

 いつか聞いた、介護士の言葉を思い出した。

「"子ども叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの"という言葉はご存知ですか」

「ええ、そりゃ。古い言葉ですよ。むしろ貴方が知っていることに驚きだ」

 介護士は苦笑して、「私はこの言葉を大事にしているんです」

「それはまた──どうして?」

「だって、人間に対する敬意を感じるでしょう? 私はその人がどんな状態であれ、敬意を忘れたくないんです」

 なんて素晴らしい心構えなのだろうか、と俺は素直に感心した覚えがある。けれども、その清すぎる意識の所為で、俺はきっと不必要な罪悪感に囚われてもいるのだ。

 彼女が入院してから数日後のこと。

 担当医が俺を呼ぶなり、こんな提案をした。

「もう一度彼女とお話ししたいと思いませんか」

 それは願ってもない話だったから、すぐさま飛びつこうとして、ふと我に帰った。

「でも……一体どうやって?」

「薬剤──貴方もお使いの向知性薬のひとつ──によって、一時的に知能の回復が行えるんです」医師は該当する薬物の話をした後に、しかしですね、と前置きすると顔を曇らせた。「介護されている自分に恥を覚えて鬱になるケースも多いんです。身体機能を向上させるわけではありませんからね」

 意識がはっきりしたまま赤ん坊になるようなものです、と医師は話を纏める。

 俺は呆然として、今までの説明を反芻した。けれど飲み込めず、異物のように吐き出してしまいたい想いに駆られた。これは俺の一存で決めるわけにはいかない。彼女の意思を尊重しなければ──しかし、どうやって?

「決めるのは貴方です」

 担当医は厳しい物言いをしてみせたが、しかしだからこそ、思いやりに満ちた言葉のようにも思われた。その通り。決められるのは俺以外にない。子どもでも居れば、相談できたのだろうが……まさか、こうなるとは思わなかった。

 医師と一旦別れると、妻の横たわる病室へ戻り、椅子に座る。頭がぼうっとしてきて、俺は深い深い疲労の果てに、何もかもがわからなくなって、濃い闇の中に囚われたような気分だった。いっそのこと何もわからなくなってしまえれば良かったのかもしれない。

 頭を抱えて、真っ白に塗り固められた殺風景な部屋を見渡した。

 もっと技術が発展していればこんな悩みは抱えなかっただろう。だがこれが現実だ。俺の生きる社会では、彼女が自らの意思で起き上がることは不可能なのである。

 俺はじっと妻を見た。

 すうすうと息を立てて、安らかな寝顔を見せる彼女は、どことなく平和を思わせる。

 なかなか冷酷じゃないか、現実というやつは……。どうしようもなく否定してやりたいものだったが、この世では起こるべきことしか起こり得ない。彼女と会話がしたい、でも、しかし……彼女にとっては自分の身に起こっていることなど、何も知らない方がマシなんじゃないか──とさえ思えてくる。

 こうした果てしない逡巡の果てに、結局俺は結論が出せなかった。彼女は未だ、朧気な記憶の中に浸り続けている。それはまるで、拡現で現実を上書きする俺たちと似通って見えた。

 幸福でもなければ不幸でもない。日常へと戻るためには、こうするしかなかったのだろう。だが、もし──たとえそうだったとして、俺はこの選択も受け入れられそうにない。なんて不甲斐ないことだろうか。

 彼女に敬意を表するにも、意識がなければ意味がない。そう、人生には意味が必要だ。無意味には耐えられそうにない。

 今の彼女は人生に何を見るだろう。

 俺は今の彼女にどう意味を付ければ良いのだろう。

 意味なんて、結局のところ言葉に置き換えるだけの、詭弁かもしれない。

 けれど、

 けれど。

 不意に彼女が赤ん坊に見えた。拡現から妻の姿を変えてみる。

 俺の何かがぷつんと切れて、思わず担当医を呼んでいた。判断は一瞬。無意識的なもののように思われた。

「本当に良いんですね?」と医師が聞く。

 あまりに業の深い選択に、うんともすんとも答えようがないので、代わりに目を合わせてみせた。相手はこれを承諾と受け取ったのだろう、薬剤を投与する。

 注射針から見える透明な液体を眺めながら、後悔と罪悪感とに苛まれながら、同時に、希望を見出そうとする自分を見つけ、自己嫌悪に陥った。

 ──程なくして、彼女は瞳を揺らし、微かに口を動かすと、俺を見定める。

 彼女を見下ろしながら、できるだけ穏やかな声色で、

「おはよう」

 と呼びかけた。それは短かな挨拶であったが、ふたりの再会を祝福するものでもあったら良いなと思いながら……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エニバディ 八田部壱乃介 @aka1chanchanko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ