第87話 引っ越し

 翌朝。エリナ家である飲食店の前に、路地裏に似つかわしくない豪奢な馬車が停まっていた。

「お前さん、本当に貴族になったんだな」

 様子を見に外へ出てきたエリナの父親が、隣に立つ男に視線を向ける。そこにいたのは、騎士服をカッチリと着こなし、鋭い雰囲気を纏うフェリクスであった。昨日までのいい加減さは失せている。

「俺も未だに信じたくないですけどね。俺みたいな馬鹿は、ここでバイトしながら暮らす方が多分性に合ってるんです」

「誰の店が馬鹿に相応しいって?あ?」

「あ、いやっ、それは言葉のあやって言いますか······」

 慌ててペコペコと頭を下げて謝罪するフェリクス。格好以外は適当なままであった。しかし―――

「お迎えに参りました、フェリクス殿」

 世界は彼に変わることを強要する。

 馬車から降りてきた執事姿の男が恭しく礼をした。フェリクスが騎士、貴族になった以上、いくらシリウスの執事とはいえ偉いのはフェリクスである。

「あんた直々の迎えかよ。随分と高く買われてるんだな、俺は」

「勿論で御座います。むしろ、私などでは足りないでしょう」

「はっ、よく言うぜ」

 貴族社会特有の言い回しを鼻で一蹴したフェリクスは、執事姿の男を視線から外すと後ろを振り返った。

 惜しむのは、短い期間だが充実していた生活。

 ぶっきらぼうだが根は温かい店主。

 何を喋っているかほぼ分からないが、父親に似て優しさに溢れたエリナ。

 下品な冗談を連発し、賭け事に熱心で、底辺に生きるやかましい常連たち。

 これからも、1日2日ならまたここに戻ってくることも出来るだろう。しかし生活の軸は変わる。どうしようもなく、変わってしまう。

 ―――ここで過ごした日々は、恐らくもう二度と手に出来ない幸せなのだ。

「短い間でしたが、お世話になりました」

 自然と、フェリクスは店主に頭を下げていた。先ほどのふざけた謝罪とは異なる、それは本音から来る丁寧な所作であった。

「おう。良いってもんよ」

 店主も真剣な表情でそれを受け取る。

「んじゃ、俺はもう行きますわ」

「無理だけはするなよ。どうしようもなくなったらまた戻って来い」

「ははっ、大丈夫ですって。将来俺がビックになったら、俺がバイトしてた店って大々的に宣伝していいですよ。最近の売り上げ、あんまりよくないですよね?」

「お前なぁ······」

 最後までしんみりとさせないいい加減なフェリクス。店主の顔にはいつもの呆れた笑みが戻っていた。

「人の心配より自分の心配をしてろってんだ。お前が泣きついて戻ってこないことを祈ってるよ」

「そりゃどうもですよ。んじゃ、今度こそ行きますんで。ほんと、お世話になりました」

「ああ。お前がいて、騒がしかったが結構楽しかったぞ」

 今度こそ別れの挨拶を済ませた二人。フェリクスは未練が大きくなる前に、さっさと馬車に乗り込んでしまう。馬に鞭が入り、馬車がゆっくりと進みだした。もう戻れない、過去となった日常を置いていくように。


―――――――――――――――

ここから物語が大きく動き出すので、ちょっと短いですが今回はキリが良いのでここまでで。

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定時で帰りたい魔術学院の無能用務員、実は世界最強 太田栗栖(おおたくりす) @araetaiyou

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