Day28 しゅわしゅわ
今、斑目はしゅわしゅわと音を立てるグラス二つを前にしている。厳密には、サイダーが注がれたグラス二つと来訪者だ。来訪者こと退魔師八宮小鳩は楽しそうに笑顔を浮かべながら、斑目のほうをじっと見ている。グラスに手を付ける様子はない。
サイダーをリクエストしたのは君じゃあないのかい。斑目はそう思ったが、それより先に聞くことがある。
「で、何の用なのかな」
「怪異くん引っ越すって聞きまして」
「誰から」
「先生のところに出入りする幽霊くんたちからです」
「……あー、うん。察した」
幽霊たちは案外おしゃべりであるようだ。間違いなく、彼らは小鳩が斑目の家にちょくちょくやって来ていることを認識しているし、小鳩が自分たちを理由なく害したりしないとも認識している。そういった前提条件があるわけだから、幽霊たちは小鳩にもナイの引っ越しの情報を流していくわけである。
別に引っ越すという話が小鳩に伝わる事自体は問題ではない。正直、時が来たら言うつもりはあった。だから、先に伝わっているという事実になんとも言えない感情を抱くのかもしれない。相手が小鳩だからということもあるかもしれないが、それはそれでこれはこれだ。
斑目がそう思っていることなど全く知らない小鳩が、机の上に包みを置いた。
「なので引っ越し祝いを持ってきたんですけど……」
小鳩はしばらく誰かを探すようにあたりを見回した後に、おもむろに言葉を口にする。その声色は、どことなく残念そうだ。
「怪異くん今いないんですね」
「彼は今引っ越し先の先住付喪神に挨拶をしてるところだと思うよ」
「先住の怪異がいる家なんですか?」
「まあ、そうだね。いろいろあってそこの管理者になることになったんだよ、彼」
「すごいですねえ」
そうしていると、玄関先の方からかちゃかちゃと音がする。続けて扉が開いて閉じる音。ぺたぺたと素足でフローリングを歩く音。そうしてキッチンに顔をのぞかせたのは、一つ目の猫の面をつけた和服の男性。つまり、ナイである。
彼は完全に引っ越すまでは、ここと引越し先を往復する生活を送ることにしたらしい。彼いわく、斑目の家から持ち出す自分の私物はないから、その点での負担はないのだという。ただ、引越し先の部屋が整うまでは向こうで寝るのは難しい。それに、今後は頻繁に獣の姿と人の姿を使い分ける必要があるため慣れる必要もあるのだそうだ。というのも、挨拶をした先住の付喪神たちに「家の主人としてふさわしい格好をしてもらいたいときもある」と言われたとのこと。
というわけで、ナイは姿の使い分けに身体を慣らしつつ、引っ越しの準備で多忙な日比を送っている。彼のその様子は、人が引っ越しするときのばたつく様子に似ているように思えた。どうやら、引っ越しが大変なのは人も怪異も共通であるらしい。
「先生、戻りました」
「あ、おかえり。なぜか小鳩くんもいるよ」
「えっ、『なぜか』って言い方ひどくないですか?」
「あ、こんにちは」
「こんにちは~。あ、そうだ怪異くん引っ越しお疲れ様」
「よくご存知で……」
「幽霊たちから聞いたんだってさ」
小鳩が楽しそうにピースサインを見せた。そうして流れるように机の上の包みを指し示して、ナイに説明を始めた。
「で、これは引っ越し祝いなんだけど……怪異くんお酒飲める?」
「お酒ですか。この姿で嗜むことはしていますよ」
その会話を聞いた斑目は目を細めた。にらみつけるように小鳩に視線を送る。この退魔師、見た目は十代後半に見えるが、実年齢は一体いくつだ。
「……小鳩くん、君何歳?」
「知り合いの成人済みマンにお使いしてきてもらったんで大丈夫ですよ。セーフセーフ」
少なくともお使いしてきてもらった、という点は真実なのかもしれない。斑目はそう思った。この退魔師にはそのあたりの分別はついているらしい。推測だが。
一方、そんなことを思われているとは知らない小鳩は手をひらひらと振って、話を続ける。
「まあそれはそれとして、これ、引っ越し祝いのスパークリングワインね」
小鳩が包みを開く。机の上に緑色をしたスパークリングワインのボトルが姿を現した。ラベルには、以前テレビ番組やチラシで見たようなロゴが描かれている。どこのかはすぐには思い出せないが、ちょっといい食卓に馴染みの良いものなのだろうと思う。そういう認識であるあたり、斑目が飲んだことはないものであることは確かだ。
ナイが小鳩に「持ってみてもいいですか?」と聞いている様子が見える。小鳩が明るい声で許可を出すと、ナイは片手で瓶の底を、もう片手で注ぎ口を持つ。ゆっくり上下に揺らして、満足気にうなずいた。面の向こうの顔も、おそらく穏やかなものなのだろう。
「いいですね。良いものに見えます」
「引っ越し先でちまちま飲むといいよ~」
「ありがとうございます」
ナイが軽くお辞儀をして、瓶を一度包みの上に戻す。「この布の方もいただいてよろしいですか?」と彼が聞けば、送り主の小鳩はかなり軽い口調で許可を出した。いいのかい、そんなノリで。斑目は内心そう思ったが、口にだすのは止めておいた。言わなくてもいい気がする。
立ち話もあれだし、と斑目はナイを椅子に座るように促す。「そうですね」と言う返事とともに、彼は近くの椅子を引いて席についた。机の上にはグラスが二つ。空になった斑目のグラスと、気泡がほぼなくなったサイダーの入った小鳩のグラスだ。
「ところで小鳩くん」
「はい」
「俺が君に出したサイダー、ぬるくなってるけどいいのかい。あと多分炭酸抜けてるよ」
「あっ」
慌てたように小鳩がサイダーをぐいっと飲み干す。途中でむせたのか、派手に咳き込んでいるようだ。ゆっくり飲めばいいのに。ぬるくなって炭酸が抜けたサイダーでもそれなりの味はするのだから。そう思いながら、斑目は小鳩に言う。
「おかわりいるかい?」
「はい……」
斑目は立ち上がり、冷蔵庫の前に行く。すると、後ろからナイが声を投げかけてきた。
「先生、よければ自分にもサイダーをいただけると嬉しいです」
「いいよ、それくらいなら。氷はいるかい?」
「ええ、ぜひ」
冷蔵庫近くの食器棚から、追加でグラスを一つ。先程までサイダーの入っていたグラスと、新しく取り出したグラスに氷を入れる。そうして、ゆっくりとサイダーを注いでいく。
氷がからんと鳴る。サイダーがしゅわしゅわと音を立てる。グラスの中で、泡が弾けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます