Day15 なみなみ
「先生、お仕事中失礼します」
「どうしたんだい?」
ノートパソコンに向き合っている斑目の背中に、声がかけられる。ナイの声だ。
何の用だろうか? そう思って椅子ごと振り向いた斑目は、一瞬言葉を失った。
一つ目の猫の面をつけた、着物姿の男性。斑目の視界に映る人物はそういう姿をしていた。先生、と彼が呼ぶ声はナイのものと同じ。つまるところ、彼はナイであるということか。だが、疑問はある。普段の彼は一つ目の猫のような姿をしているはずだ。だとすると、これは一体どういうことだろう。そう思うやいなや、斑目は疑問をさらりと口にした。
「君、その格好は」
「ああ、これですか」
ナイは軽く袖を持ち上げる。そうして、斑目の疑問に答えた。
「先生のところで怪異談義をさせていただいたおかげか、変化できる程度の力は戻ってきたようですので、試しに」
「なるほど……」
変化ができる怪異だったとは驚きだ。いや、怪異全体が個人差はあれども変化できる可能性を秘めているのかもしれない。ナイが試しに変化する姿として人の姿を選んだのは、それが化けやすい姿だったからだろう。推測だが。
椅子に座ったまま、斑目はナイを見上げる。彼は首をこくりとかしげながら、「先生、どうされました?」と聞いてきた。
斑目は思考を広げる。聞きたいことは色々ある気がする。だが、浮かんでくる質問は他愛無いものばかりだ。いや、ここは怪異について深く掘り下げる質問をするより、普通に浮かんだ他愛無いものを聞いてみるほうがいいのではないだろうか。斑目はただの作家だ。オカルト的な情報のストックがあるサスペンス作家だ。怪異について掘り下げて何かが起こってしまったときの対処法など知るわけがない。だから、そういう話は避けたほうがいいのだ。
ナイの「先生?」と言う自分を呼ぶ声がした。はっとして思考を広げるのを止めた斑目は、浮かんでいた他愛のない質問を投げかけてみることにした。
「身長高いね」
「この格好になるときはいつもこれくらいなんですよ」
「他の姿に化けたりはできるのかい?」
「大型犬やたぬきへの変化はやったことありますね」
「なるほど……?」
「同族の集まりでそういう話になったんですよ」
「なるほど」
どうやら、ナイにも色々あるようだ。と、考えたところで斑目はナイを立たせたままであることに気づく。荷物入れを兼ねているスツールに腰掛けるように促すと、ナイは素直にそこに腰を下ろした。スツールの高さが低かったかもしれないと斑目は思ったが、実際ナイが座って特に困っている空気を出していないところを見るとちょうど良かったのかもしれない。
そうしたところで、斑目は一旦仕事に戻ることにした。ノートパソコンには書きかけの小説が映し出されている。雑誌に載せる短編だ。夏だからホラーの仕事を持ってきたと担当編集が言っていたものである。こうやって少しだけとはいえホラーを書いているから、幽霊たちへの「自分はサスペンス作家である」という理解が進まないのではないだろうか?
と、考えたところで、斑目は自分の思考がだいぶ散っていることを自覚した。こうなってしまっては仕事をするより気分転換をはかるほうを優先したほうがいい。そういえば、今……。
斑目はナイに視線を合わせて、こう言った。
「そうだ、君いいものを飲まないかい」
「なんでしょう」
「冷蔵庫でいいぶどうジュースを冷やしててね、ワインの代わりに」
「代わりに……先生はお酒を飲まないのですか?」
「お酒、あんまり強くなくてね」
「そうでしたか」
飲める人間だったら、ワインをたしなみたかったんだけどね。斑目はそう言いながら、グラスを軽く振るような仕草をした。酒が飲める人間だったら、このようにして乾杯もして楽しめたのかもしれない。とはいえ、乾杯くらいなら酒以外でも楽しめるのではないか? さっき自分でも行ったとおりにぶどうジュースを代替にするとかして。実際乾杯だけならワイン以外でもやっても問題はないし、行われている。ビールとか、ソフトドリンクとかでも。
そういえば、今彼はちょうど人間の姿だ。普段の猫のような姿ではできないことができるはずだ。例えば。
「まあ、言いたいのはだね。変化しているうちに、乾杯とかしてみたいと思わないかい?」
ナイが小さくうなずく様子が見えた。
「なるほど。それは面白そうです」
その答えを受け取るやいなや、斑目は浮かれた気分でキッチン、具体的には冷蔵庫の前まで向かう。ゆっくり扉を開けると、ドアポケット部分に瓶に入ったぶどうジュースが収められている。それを取り出して、まずは机の上へ。
次は、と斑目は食器棚の扉を開く。ワイングラスはないが、来客用のグラスはいくつかある。今日はちょっと浮かれているからこれらを使ってもいいだろう。斑目は二人分のグラスを取り出して、一個ずつ机の上においた。
そうしていると、キッチンの入口の方にナイがやってくる。椅子に座っててと斑目が言えば、彼はゆっくりとした所作で椅子に腰を下ろした。彼の目の前に一つグラスを置く。もう一つは別の椅子の手前に。これは自分用だ。
そうして食器の準備ができれば、次はジュースを注ぐ番。斑目はジュースのフタを開ける。さて、次に考えるのはどれくらい注いでみるかだ。とりあえずは自分のグラスで様子を見てみようと、斑目は自分用に用意したグラスにジュースを注いだ。少し急いで傾けすぎたかもしれない、ジュースが勢いよく注がれる。慌ててゆっくりと注ぐようにジュースを傾け直すと、ぎりぎりだったようだ。グラスになみなみと注がれたぶどうジュースが出来上がってしまった。
「ちょっと入れすぎたね……」
「先生、もしかして少し浮かれていらっしゃるので?」
「そうかもしれないね。まあこれは後でストローで飲むとして……別のグラス取ってくるよ」
「はい」
そうして再びジュースを注ぎ直す。二人分、ちょうどいい具合のぶどうジュース入りのグラスが出来上がった。
斑目は自分のグラスを持ち上げて、ナイの方に少し寄せる。ナイもまた、グラスを持ち上げた。そうすると、視線が合う。斑目は嬉しそうに微笑みながら、高らかに宣言した。
「それでは……乾杯」
「乾杯」
一人と一人のグラスが合わされる。カチン、と軽く涼やかな音が響いた。
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