Day10 くらげ

「今日はやけに外が騒がしいね……」

「霊たち、慌てているようにも見えますね」

「どうしたんだろうね」


 今日の天気は午後から曇り。天気予報アプリによればそうらしい。

 それ以外には特になにかおかしいところはない。斑目はそう認識しているが、窓の外を行き交う幽霊たちにとってはそうでもないらしい。ナイが言うように慌てているようにも見えるし、何かを恐れているようにも見える。


「まあ、聞いてみるのが早いかな」


 ちょうどよく、声をかけやすい位置に幽霊が何人かいるじゃないか。

 斑目は窓をノックした。すると、窓のすぐ近くにいた幽霊たちが音に気づいてこちらへとやってくる。「先生?」「先生どうしたの?」と、幽霊たちは疑問を口にした。斑目はそのまま、それに解答する。

 

「聞きたいことがあるんだよ。ちょっとみんな慌てているようだけど、どうかしたのかい」

「あー」

「うん、たしかにちょっとばたばたしてるかも。みんな」


 幽霊たちは空を見上げた。つられて、斑目も空を見上げる。

 曇天の空だ。雨が降る気配はないが、ただただ曇っているだけの空。一見何の変哲もないが、空がどうしたというのだろう。


「先生には関係ないかもなんだけど、今日このあたりを大きい怪異が通り過ぎてくらしくて」

「俺たちの基準で言う台風みたいなものかな」

「そうそれ!」


 それが空を通過していくということだろうか。幽霊たちの言葉を借りるなら。

 大きな怪異。どのような姿をしているのだろうか。幽霊たちが言うには、空をゆうゆうと泳ぐ怪異なのだそうだ。斑目はその言葉で、まっさきに鯨を連想した。もしかしたら現物は違うのかもしれない。そのように怪異に思考を広げているうちに、斑目はこういう思考に行き着いた。空を泳ぐ怪異、正直見てみたい。

 

「下手したら食べられちゃうかもしれないから、やってくるまえに安全なとこに逃げよう! ってなってるの」

「そうそう」

「なるほど……」


 幽霊を食べる怪異、話でしか聞いたことのないが、どうやらそういうやつもいるらしい。斑目のもとにやってくる霊たちに被害者はいないが、霊の知り合いの霊にはいると以前聞いた覚えがある。

 そういう危険性があり、そして大きい。霊たちが身を守るために避難する。おそらく相当に危険なものなのだろう。正直見てみたいという感情は変わらないが、それはそれとして身は守りたい。自分は霊や怪異が見える人間だ――さて、そのような前提を踏まえるならば。


「今日は俺たちも外に出ないほうが無難かもしれないね」

「先生生きてるじゃん」

「君たち、俺が見える人間だってこと忘れてないかい」

「そういえば先生そうだったね」

「見えるということは、それだけ怪異の世界に近いってこと。だから俺も今日は外に出ない」

「先生もとからあんまり外に出てないじゃん」

「それはそれ、これはこれ」


 彼らからすれば、自分たちのような人間は「そちらがわ」なのだろう。斑目は、そう思っている。よく話に来る霊たちからすれば、ふわっとした認識しかされてなさそうだが。

 さて、ここまで霊たちの事情を聞いたからには。


「まあ、教えてくれてありがとう。お礼は今度するよ」


 こう、言うべきだろう。

 

「わーい」

「ありがとう先生~」

「気をつけてね」


 ◇

 

 午後を過ぎてしばらく経つころ、空が少しだけ暗くなった。雨が降り始めるのだろうか? 一瞬そう思うが雨の音はしない。

 雨でないなら、幽霊たちが言っていた怪異が通り過ぎるというサインということだろうか。

 ナイが「外、大変なことになりそうなんですよね」と言う横で、斑目は思っていることを素直に口にした。

 

「ちょっとだけ見てみようかな」

「先生……」

「大丈夫大丈夫、ちょっとだけだから」


 見てみたいのだから仕方がない。これは好奇心というよりは、民俗学のフィールドワークのようなものだ。

 ナイの呆れたような目線を背中に受けながら、斑目はベランダの窓から外の様子を伺う。

 そして、目を瞬かせた。

 

 空が海のようだ。斑目は、外に広がる様子にそのような印象を受けた。海中から見上げる海のようだと。

 雲の海の下、大きなくらげが悠々と泳いでいる。それも一匹ではなく、複数。これが霊が言っていた怪異だろう。彼らにとって台風のような存在である怪異。ゆらゆらと揺れながら空を行く様子を見るに、台風というよりは神秘的な印象を受ける。

 斑目はじっと怪異の様子を見つめる。写真に取ってみようかと一瞬思ったが、その行為で怪異に感づかれるのも危険だと思い、やめにした。そのままじっと怪異を見ていると、その中の一匹がこちらへ近づいているような、気がした。

 これはこういうことだろうか? 写真は取らないと判断したが、怪異はどうやらこちらに気づいたらしい、ということ。危険だとわかっているのに目が離せない。ふわふわと浮かびながらこちらへ近づいてくる巨大くらげは、美しい。

 飲み込まれてしまうのだろうか? 斑目がそう思ったと同時に、目の前を影がよぎった。


 誰かの後ろ姿だ。それがくらげを指先で軽く弾いている。一瞬だけくらげの表面がゆれたかと思うと、くらげは方向転換をして窓から離れていった。

 その様子を見ていると、影がこちらを向いたことに気づいた。

 黒いショートヘアに、赤い双眸。Tシャツの上に黒いパーカーを着ている、十代後半とおぼしき青年だ。彼は斑目と視線があうと、どこか楽しげに窓をノックした。


「怪異、見えてるんですよね? だめですよ、こういう日に外見ちゃったら」

「……誰だい、君は」

「あ、僕ですか? 八宮小鳩といいます。これ名刺……あ、窓開けてください、窓。名刺渡すんで」


 名刺かあ。斑目は一瞬思うが、相手の楽しそうな空気に押されて窓を開けた。隙間から青年の差し出す名刺が、室内に差し込まれる。名刺に書かれている文字列を追っていると、斑目はある言葉に目を留めた。そうしてそれを口に出す。


「退魔師」

「はい。退魔師です」


 退魔師。青年の言った言葉を斑目は脳裏で反芻する。

 見えるようになって霊と関わって以降、彼らに関する簡単な知識を知る機会はあった。悪霊やよからぬ怪異を「祓う」ことで対処するプロ。退魔師とは、その総称である。とはいえ、その解釈も斑目の大雑把な知識によるものだ。実際に退魔師側から解説があったら、より正しい解説が聞けるのかもしれない。今はそれどころじゃなさそうだが。


「あ、さっきの子は移動ルートをちょちょいと変えただけなので安心していいですよ」


 僕はむやみな殺生はしない退魔師なので、と朗らかに青年は言う。

 そういう問題なのだろうか。斑目が訝しげにしていると、青年は一旦空を眺めてから再びこちらを向いた。そして、斑目と――すぐ近くにいたナイに手を振ってこう言う。

 

「それじゃあ僕はこれで〜、台風も過ぎたのであとはごゆっくりお過ごしくださいね〜」


 青年がベランダから飛び降りる。慌てて斑目は身を乗り出すが、青年が落ちた地点には誰もいなかった。その代わりに、木々が風もないのに揺れ、黒い影が木々を渡っている様子が見えた。退魔師とは身体能力も優れているのだろうか。

 窓の外を眺めていた斑目だったが、しばらくしておもむろにため息を付いた。

 

「なんだったんだろう……」

「退魔師ってことしかわかりませんでしたね……」

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