Day8 さらさら
「おはようございます、先生」
ナイの視線を受けながら、斑目は静かに佇む。何も言わずじっとナイを見ていると、彼から声がかけられた。
「先生、どうされました?」
「何も言わず俺の仕事部屋まで来てくれないかい」
「はい、構いませんよ」
そうして斑目はナイとともに仕事部屋へと向かう。扉を開けば、そこにはいつもの仕事部屋とは違う光景が広がっていた。
髪だ。髪が天井から垂れ下がっている。幽霊のたぐいの頭が天井から出ているわけではない。ただ、長い髪だけがそこにあった。
斑目は朝起きてゼリー飲料で朝食を済ませた後、仕事前の準備をしようと思った。その気分で仕事部屋の扉を開くと……それがそこにあったものだから、思わず扉を閉めてしまった。妙な理性が働いたのか、ゆっくりと音を立てないように。
「これは、まあ」
「起きたらいたんだよ……」
斑目は薄目でそれを見てみた。髪がそこにある。先程から何ら変わりない。
「俺は覚えている範囲では出る場所には行ってないんだけどね……」
そう言いながら、斑目は最近の自分の行動を思い出す。
ナイと出会った日に行った坂は、近くに禁足地があるが危険な場所ではない。それ以前に、その禁足地には一切行っていない。その近くにもだ。
筆の付喪神の本体を回収するために行った先輩作家の家もそうだ。危険な場所ではない。そもそもその家が危険なのだとしたら、先輩作家も流石に勘づいて引っ越しているはずだ。
それから、霊たちはしょっちゅう家に来るが、危険なものを持ち込む霊は今のところいない。もし危険なものを持ち込まれたとしてもすぐに感づくはずだ。斑目は、己の直感にそういった自信がある。
そういうわけだから、心当たりはない。
そうしてしばらく考えていると、ナイの一つ目と目が合った。彼はぱちくりと目を瞬かせ、斑目の思考を肯定するかのように言葉を続けた。
「たしかに行ってはいませんね。先生は家にいることのほうが多いですし」
「だから、俺が連れてきたわけじゃあないんだよね……」
「自分も心当たりはありませんね……」
自分たちが持ち込んだわけでも、持ち込まれたわけでもない。
斑目は今度はしっかりと髪を見た。髪はたしかにそこにいて、特に動く様子もない。直感での判断では、危険ではないように思える。なぜここにいるのかは相変わらず、
「謎だなあ」
「ですね」
しばらくは放置していても大丈夫だろう。髪を横目に、斑目は窓を開ける。そういえばこの髪に気を取られていて、換気するのを忘れていた。換気をするならまだ涼しい午前中にやっておいたほうがいい。
そうして開かれた窓から風が入ってくる。風は窓の外に見える木の葉を揺らし、室内のカーテンを揺らし――垂れ下がる髪の毛を揺らした。かなりきれいに揺れた気がする。例えるならシャンプーのコマーシャルで見るような揺れ方だ。その様子に、斑目はこんな感想を抱いた。
「さらさらしてるねえ……」
「そうですね。きっと丁寧に髪を手入れしている怪異なのでしょう」
「というか……これ以上は動かないのかな」
「もしかしたら、佇むことがこの怪異の役目なのかもしれませんよ」
「佇むことで、見ている人間を怖がらせるみたいな?」
「そうです、そうです」
斑目は椅子に腰を下ろす。それに合わせるように、ナイがぴょんと机の上に飛び乗った。視線が合う。このまま今日の怪異談義と洒落込んでも良さそうだと、斑目は関連する話を記憶から引っ張り出す。怪異と髪の話といえば……。
垂れ下がったままの髪は、時折入ってくる風をうけて揺れている。さらさらと流れている。先程から変わらず、髪だけがそこにある。持ち主らしい怪異が姿を見せる様子は一切ない。
「怪異と髪の話。怪異の髪はわりとさらさらであることが多いイメージが俺にはあるんだよね」
「ふむ」
「俺が聞いた怪談の範疇だから、実際にどういうイメージなのかと統計を取るとそうではないのかもしれない。ばさばさの髪の怪異の話もたくさんあるようだし」
「なるほど。ところで先生はなぜそう思われたのですか?」
問いかけに、斑目はなどか目を瞬かせる。そうして机のへりを指でとんとんと叩きながら、ナイの問いかけに答えた。
「日本人形」
「ありますね」
「それのイメージかな。彼女らはえてして怪奇現象と結び付けられている」
「たしかに、そういう話はよく聞きますね」
斑目の実家にも日本人形があった。幼少期は床の間に飾られているそれが妙に怖く感じていたものである。今はきれいだなと率直に思うことのほうが多いあたり、その手の怖さは年月の経過で解消されたりするものなのだろう。
実家の日本人形はごく普通の日本人形だった。髪が伸びるだとか勝手に動くだとかいうことはない。知識としてそういう怪異がらみの人形があることは知っているが、実際にそれを見たことは実家にいたときも実家から離れた今現在もない。いつか見ることはあるのだろうか、そう思っている。
さて、この髪である。先程揺れていた様子をみるに、人形の髪よりさらさらとしているようだ。となると、この怪異は人形のような物品ではなくそれ以外が由来となっていると思われる。素直に考えるなら、人間の霊ということになるだろうか。もしくは、動物由来の怪異が人に化けたものか。とはいえ、見えているのは先程から変わらず髪だけだ。どういったものなのか、一部しか見えない以上、想像することしかできない。先程からそうしているように。
しばらく髪に視線を注いでいると、その髪が少しずつ天井へと吸い込まれていくように見えた気がした。
「あ」
「おや……」
気がした、ではない。実際天井に吸い込まれていっている。斑目には、それが用は終わったので帰ると言っているように見えた。
しばらくその様子を見ていると、髪は完全に斑目の部屋から消えてなくなった。最初から何もいなかったかのように、何の痕跡も残していない。
「帰ってしまったね」
「そうですね」
風が吹く。部屋に入ってきたそれは、窓のカーテンだけを揺らした。
おもむろに斑目は窓を閉める。髪に気を取られてすっかり忘れていたが、換気も十分できただろう。レースカーテンも閉めた上で、エアコンのスイッチを入れる。その風に一瞬身構える。そうした上で、思い出す。髪はもういなくなっているのだ。
「なんだったんだろう」
「なんだったんでしょう」
「まあ、いいか……仕事しよう」
本当に一体なんだったのだろうか。想像の範疇で追求することはできるだろうが、斑目はそうしようとは思わなかった。
あれは、謎のままでいい。ただなんとなく、そう思っている。
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