Day6 筆

「せんせー」

「はいはい、ちょっと待ってくれないかい」

「せんせー、昼ごはんゼリーやめろって言われてなかったっけ」


 なんとか午前中に原稿を仕上げて迎えたある日の昼のこと。昼食をゼリー飲料で済ませようとしていた斑目を、幽霊が訪問してきた。都合悪いところを見られた気がする。斑目は少しだけそう思ったが、見ているのは幽霊なのでセーフだということにした。咎める人間には見られていないので、セーフ。それに自分で言ったように午前中忙しかったから、セーフ。


「今日は忙しかったからセーフだよ。それで、何の用?」

 

 ゼリー飲料を飲み終えた斑目は幽霊の方に向き直る。中身のなくなったパッケージをゴミ箱に捨ててから。

 その様子を見守っていた幽霊は、斑目に話を振られるとはっとしてうなずいた。そうして、「ちょっとすごいことになっちゃって」と前置きをして言葉を続けた。

 

「知り合いの家で付喪神が生まれちゃって」

「生まれた? もとからいるんじゃなくて?」

「うん、生まれちゃったんだって」


 付喪神が生まれた。なんとも不思議な言葉である。斑目の知っている範囲では、付喪神は生まれるものではなくもとからいるものである。もっとも、斑目の知らないところでこの現代でも付喪神は生まれているのかもしれないが。幽霊が言っているように。

 斑目は付喪神に出会ったことはあるが、回数はさほど多くない。先輩作家の家に招かれて外へ出ざるを得なくなった時に見た付喪神が、一番直近に見たものである。先輩作家の家でほうきの付喪神とちりとりの付喪神が能天気に会話をしていた。あまりにものんきな空気が流れていたものだから、思わず脱力してしまったことをよく覚えている。そのときに、先輩作家にどうかしたのかと問われたことも。

 それはそれとして、今は幽霊の話を聞くことが先決だ。霊はこちらに頼み事を持ってきたのだろうから。


「それで、本題は?」

「あ、うん。そうそう。その付喪神が宿っている筆がね、捨てられそうになっちゃったみたいで」

「まあ見えない人にとってはただの筆だろうからね……。それで? 俺は何をすればいいんだい」

「手伝ってくれるの!?」

「なに驚いているんだい……」


 手伝わせるつもりでここに来たんじゃないのかい。斑目は力の抜けた声でそう言った。

 驚かれるとは思わなかったからだ。この霊は自分を何だと思っているんだ。たまに忙しい時に頼み事を断ったことがあるが、それが無害な霊たちの間で噂にでもなっているのか。その時の自分の反応が、無害な霊たちの間で独り歩きでもしているのか。斑目は色々考えたが、しばらくして考えることをやめた。このことに関して思考を広げたところで、不毛な気がする。

 一方、霊は心底驚いていたようだ。そうだったと言葉を続け、霊は軽く咳払いをする。

 

「そういうわけだから、せんせーのほうで筆を確保して」

「とりあえずはそれだけでいいんだね?」

「うん」

「わかった、やってみるよ。それで、そのお宅は?」

「えっとねえ……」


 ◇


 霊の言っていた家は件の先輩作家の家であると発覚したのは、わりとすぐにだった。

 霊が住所を言い、その家の近くにあるものの特徴を言ってきた時点で気づいた。斑目は出不精であるが、一度行った場所に対する記憶力はそれなりにある。次回行くときに迷わないように、メモを取っているということもあるが。

 なんにせよそのおかげで、斑目は比較的容易に筆を回収することができた。先輩作家に対する言い訳はかなり無理やりだったような気はしているが、その場で何も言われなかったので大丈夫だったということにしたい。変人と思われて、そっとしておこうと思われた可能性も否定できないが。

 自宅に戻り、椅子の背もたれに体を埋めながら斑目は独り言のように言葉を吐いた。

 

「俺の人付き合いの範疇でなんとかできてよかったよ……」

「お疲れさまです、先生。それで、その机の上にいるのが……」


 事情をある程度知っている彼の一つ目が、斑目の机の上に注がれる。

 

「例の付喪神さ」


 そう言って、斑目は机の上の筆――の姿をした付喪神を指し示す。

 付喪神は、斑目とナイの視線を受けながら斑目の書斎机を掃除している。主に、ノートパソコンの周辺を。

 付喪神は今この空間に見えている人間と夢喰のような怪異しかいないのをいいことに、堂々と本体ごと動いているようだ。小さい生き物が動いているような印象を受ける。かわいい。かわいいが、それはそれとして。

 

「掃除はそこそこでいいからね。というか君は筆の付喪神だろう? 穂先で掃除はしてもいいものなのかい」


 付喪神は一瞬動きを止めた。目らしきものが斑目を見上げる。そうすると、自然に目と目が合う。斑目は続けて「穂先が汚れたり壊れたりする心配はないのかい」と問いかけるが、付喪神は一瞬軸を傾けた後に掃除を再開した。斑目のノートパソコン周辺がさらにきれいになっていく。

 

「気にしてなさそうですね」

「……」


 付喪神の様子を見守っていると、ふと窓の外で鈴がなるような音がした。

 斑目は顔を上げて窓を見る。頼み事をしてきた幽霊がふわふわと浮いていた。頼み事の進捗を聞きに来たのだろう、斑目は窓越しに幽霊に「はいはい」と声をかけた。


「せんせー、せんせー」

「はいはい、依頼は果たしたよ」

「ありがとう」


 霊は斑目にお辞儀をした。つられて斑目も軽く頭を下げる。


「それからね、ある人がね、あとで先生のとこに筆取りに行くって」

「はいはい、わかったよ」

「はーい、ありがとう」


 筆を誰かが取りに来るとは言っても、場所はわかるのだろうか。何が来るかという心配より先に、斑目はその点を心配した。この霊が先方に伝えていると信じたい。

 霊が再び斑目に対してお辞儀をする。斑目ももう一度頭を軽く下げた。満足したらしい幽霊は最後に手を軽く振って、ふわふわと地上へと降りていく。斑目とナイはその様子を、霊がマンションの敷地を出て行くまで見守った。

 それからしばらくして、斑目はナイに語りかける。


「さて、お客さんはどういう怪異かな」

「霊が言う人、だいたい怪異ですよね」


 人間のもとに訪問してくる怪異。幽霊たちのように窓から来るのだろうか、それとも玄関から来るのだろうか。後者である場合、彼は人の姿に擬態して訪れてくるに違いない。そうでなければ、怪しまれる。それは怪異も理解していることだろう。さて、本当に一体どういう怪異なのだろうか。

 斑目は小さく息を吐いた。そうして、椅子ごとナイの方を向いてこう言葉を発する。怪異談義の発端になる言葉を。


「付喪神を養える怪異、どんな怪異だと思う?」

「そういう怪異に囲まれている人ではないでしょうか」

「それはそうだね。それから、そういうものを積極的に招き入れている怪異でもあると思う」

「ですね、実際そういう方もいらっしゃいますし」

「今回の人は……あ、俺の予想なんだけど」

「はい」

「その人自体も付喪神。そんな予感がする」

「ありえますね」

「ね、ありえる」

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