SOS

いちはじめ

SOS

 男は憤懣やるかたないといった表情で女に食ってかかっていた。

「全くもって理不尽だろう。俺はお前に何の不満も持っていない。なのに何故別れなきゃいけないんだ」

「そういわれても困ります。前からお話させてもらってます」

 女の方は、ほとほと困ったような口調ではあるが、随分落ち着いた様子で対応している。男は四十代後半、中年体形の完成まであとわずかという腹回りをしていた。女は男よりは随分若く見えるが、一昔前の有名女優と瓜二つの顔で、更に非の打ち所がない見事なプロポーションだった。

「本社からも連絡が来てますよね」

「だから何度も言っているだろう。俺にはその必要がないんだって。本社にもクレームを入れてある」

 先ほどから同じ問答を繰り返している二人は、リビングのテーブルを挟み、向かい合って座っている。そしてそのテーブルの上には一枚の書類があった。

「だってこの書類にもサインしてあるんですよ。それをいまさら嫌だと言われても……」

 女のほれぼれするようなしなやかな指が書類を指している。その言葉に反論できず、男はばつが悪そうに横を向いた。

 その書類は、アンドロイドのSOS(ソーシャルオペレーションシステム)バージョンアップに関する許諾書だった。その書類によれば、SOSのバージョンアップに対応できないアンドロイドは、返却しなければならなかった。そしてその書類には、契約者がそれを許諾した旨のサインがあった。

 二十世紀後半から急速に高度化した情報技術、いわゆるITは今や人間の生活場面のあらゆる領域に浸透しており、最早それを切り離しての生活は不可能な状況にまでなっていた。それはSOSと呼ばれ、社会はインフラや交通機関は無論のこと、個々人の健康や日々の生活までもがそれによって包括的に管理されていた。そしてそのSOSは、無論日々進化しており、システムがバージョンアップされる度に、周辺機器もシステムを更新する必要があった。当然SOSにリンクされているアンドロイドもその例外ではない。特に今回のバージョンアップでは演算処理速度が飛躍的に高められ、システムの上書きだけでは対応できず、それそのものを交換する必要があった。そのため対応ができない旧型アンドロイドが少なからず発生し、ちょっとした社会不安を引き起こしていた。アンドロイドはSOSにリンクされることでその安全性が担保されている。そのため、リンクから外れたアンドロイドは暴走の可能性さえある危険なものとみなされたからだ。

 男は観念したのか、女に向き直るとテーブルの書類を指でタップして消した。そしてやおら立ち上がろうとした時、突然苦悩の表情で胸を押さえながらその場に倒れ込んだ。

 女が倒れた男に慌てて駆け寄った。男は目を閉じ胸を押さえたまま、大きく肩で息をしている。女は左手を男の胸に置くと、右手の指を鳴らしてモニター画面を目の前の空間に出現させた。

「また心臓部の発作ね。代替えシステムの不具合事象だからいつものように処置できるわ」

 女が空中のモニター画面を手際よく操作すると、いくつかの赤くなっていたパラメーターが次第に青に変わっていった。女はすべての数値が正常値に戻ったことを確認すると、再び指を鳴らして画面を消した。

 男の荒い呼吸も徐々に収まってきたようだった。

「……いつも済まない。これもシステム更新に合わせて手当してこなかったつけが回ってきているということだな……」

「もうごまかしがきかないのよ。これで完全に新しいSOSに移行したら、私では手の施しようもなくなってしまうわ」

 女は悲しそうにつぶやいた。

「だからお別れなのか……」

 女は黙って男の上半身を起こすと、背中からそっと抱きしめた。リビングはしばらく静寂に包まれた。

「もう認めるしかないんだな……。いや認めるも何も、受け入れるしかないのだな」

 男は女に支えられながらゆっくりと立ちあがり、再び椅子に腰を落とした。女はその傍らに立ち、男の背中に優しく手を添えた。

「高度なテクノロジーも考え物だな。どこも故障していなくとも、システムのバージョンアップに対応できなければ無用の長物と化してしまう。愛着のあるものでも廃棄するしかないなんて……。お前と過ごした日々が愛おしい……」

 男は涙を流しているようだった。

「悲しいわ、あなたにはとてもよくしてもらったもの……」

 女はまるで母親が子供をあやしつけるように、椅子に沈み込んでいる男の背中を撫でた。

 部屋のモニターが訪問者を告げた。訪問者はアンドロイドの引き取り業者だった。

「アンドロイドを引き取りに参りました。型番は……、こりゃまた随分古いモデルですね。これだとハウス設備の運用システムに同調させるのが大変だったでしょう。……あっ、だから部屋ごとモジュール交換されるのですね」

「ああ、そうなんだ……。よろしく頼むよ」

 そう言うと男は、部屋のベース電源を落とした。

 暗くなった部屋の中で男は完全に沈黙した。

 女は悲しそうな笑みを浮かべ、別れを惜しむように部屋を見回した。

「あなたが変わってしまう気がして更新を拒んできたのはこの私……。ごめんなさい、そしてさようなら」

 女はそうつぶやくと部屋を後にした。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

SOS いちはじめ @sub707inblue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ