第9話 不思議な少女

 手紙を封筒にしまいこみ、呆然とする。


「…………」


 そんなことを、一気に言われても納得できない。いろんな気持ちが渦巻いている。

 咲空はずっと嘘をついていた。腹が立っているはずなのに、それ以上に悲しさが強い。自分の感情がわからない。


 手紙の通り、咲空の机の引き出しには日記帳が入っていた。表紙の裏にはメモがあり、『佐々原くんとの記憶は、寝るとリセットされる。』と書いてあった。ある一日を境に、日記帳は、俺のことばかりになっている。手紙の内容はきっと真実だ。なのに、どうしても心が受け入れてくれない。


 咲空は今、俺の目の前にいる。こんな近くにいるのに、この日記帳一つ失われれば、俺たちはただのクラスメイトに戻る。その事実が冷たく心に刺さる。日記帳づたいでもいい。忘れないでほしい。だけど、その想いは咲空を苦しめることになるのだろう。


 こんな気持ちにならないために、俺は他人と関わってこなかった。あの日、咲空を信じたのが間違いだった。あのとき、ちゃんと断ればこんなことにはならなかったはずなのに。


 ―なんて

 思いたくないくらい、咲空との思い出は輝いている。それは紛れもない事実だった。


 俺は咲空が好きだ。


 何かと理由をつけて、断定することを避けていた。でも、きっと俺は、声をかけてくれたあの日から、彼女を好きになっていたんだ。


「……俺のわがままだってまだ一つ残ってるんだよ」


 眠っている咲空に背を向けてつぶやく。


「……忘れないでくれ」


 この体質が憎いくらい、今は咲空に忘れてほしくないと強く願う。


 ―そのとき、誰かが俺に話しかけた。


「いいの?」


 びっくりして顔をあげると、そこは咲空の部屋ではなく、どこかの教室になっていた。俺はここを知っている。ここはきっと中学の音楽室だ。


「……夢?」


「その体質じゃなくなっても、咲空に覚えていてほしい?」


 再び聞こえた声に振り返ると、そこに立っていたのは、仮面を被った少女だった。懐かしい中学のセーラー服に身を包み、肩ぐらいの髪の毛が風になびいている。その異様な光景は、不気味に感じそうなものだが、俺はなぜか彼女の声に安心感を覚える。


「あぁ」


「でも、そしたらみんなが忘れた記憶、戻っちゃうかもしれないよ?佐々原くんが思い出してほしくない記憶も」


「……」


 答えは決まっているはずだ。それなのに、弱い自分が邪魔をする。

 黙っている俺をみて、仮面の少女が少し話題を転換してきた。


「佐々原くんは、この体質になったことと引き換えに何かを失った。それが何か分かる?」


 俺が失ったもの?確かに俺はこの体質になって、いくつか大事なものを失った気がする。友達、部活の仲間、人とのつながり…


「……記憶……?」


 俺は、すっかり周りから自分の記憶が失われたことに気をとられ、自分の中から抜け落ちた記憶に気づいていなかった。


「そう。君にはコンクールで失敗した時の記憶しか残されていない。中学の記憶全体がぼんやりしてない?コンクール以前の部活での記憶、部員の顔、名前。全部失われているはずだよ。つまり、トラウマに関わるすべての記憶を君は失っている」


 確かにそうだ。俺は、本番以外の記憶を覚えていない。そして、部活仲間や顧問の顔にも、もやがかかったようになっている。本番前後の記憶は俺が感じ取ったマイナスな感情しか残っていない。


「部活のみんなと一生懸命練習したこと。叱られるたびに、互いに励ましあったこと。顧問が休憩中に差し入れを持ってきてくれたこと。オーディションで先輩から熱いエールをもらったこと。

 そして―


 コンクールの後、泣きながら励ましてくれた存在」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中にとある記憶が流れ込む。


「わたしは…。わたしは知ってるよ。和哉が誰よりも練習してたこと。誰も悪くない。絶対悪くないから」


 失敗した俺を気遣って、誰も声をかけてこないなか、一人だけ泣きながら抱き締めてくれた存在。俺は、彼女の腕の中で、緊張の糸が切れたのか泣き崩れてしまった。情けない姿をさらしても、俺から目をそらさないでいてくれた彼女は、


「……咲空」

 

 呟いた瞬間、少女の仮面が割れる。


 少女の正体は、中学生の咲空だった。咲空は俺と同じパートで共に練習した仲間であり、励ましてくれた存在だった。俺は彼女を忘れていたんだ。


 幼い咲空が泣きながら、俺に駆け寄ってくる。そして、俺を抱き締めて言った。

「やっと、思い出してくれた」

「ごめん。ごめんな、咲空」


 俺は、あのトラウマな記憶を、自分でより悪い記憶にしていたのかもしれない。救いの手をさしのべてくれた人の手を振り払い、悲しみにくれることで、向き合うことから逃げたんだ。その結果、残った記憶が余計に自分を苦しめた。


 でも、もう逃げない。俺は過去と向き合うべきだ。そして、自分を心から心配してくれる人の手を、もう二度と、離してはいけないんだ。


「和哉、今度は頑張れそう?」

「あぁ」


 ―気づくと、俺は咲空の部屋に戻っていた。

 あれは夢だったのか、俺の体質は元に戻ったのか、状況が整理しきれずにただただ呆然とする。

 記憶が元に戻ったら、咲空は弱い俺をもう一度受け入れてくれるだろうか。


***

 

 咲空が起きたのは、その日の夕方。


 咲空は、俺がいることに気付くと、咲空は起き上がって俺をぼんやりと見つめていた。

 すると、じっと見つめる目が、だんだん潤んでいき一筋の涙が頬をつたう。


 もし、その理由が恐怖や悲しみだったら―。


 硬直していると、咲空が俺に抱きついてきた。


「……和哉」


 咲空の小さな声が聞こえて、ふと緊張が溶ける。いとおしさがこみあげてきて、俺は咲空を抱き締めた。

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