#03 La kaŝita Ĉambro

 入学式が終わった後、工藤からのメッセージが届いた。内容は予想通り、クラスメートたちとカラオケに行って交流するかどうかを尋ねるものだった。小学生だった頃、あの女は僕を彼女の研究室の生徒たちの前で歌わせたことがあったが、回数が増えるにつれて、ある程度の抵抗心を持つようにした。更衣室に閉じ込められた夜の後、ますます知らない人の前に歌うことが嫌いになった。


 そこで僕は、『消耗が大きかったため、午後は休みたい』という内容のメッセージを工藤に送り、誘いを断った。それは嘘ではない。体力がない僕には、ノートに書いた内容を実際の挨拶にして、その中で口調や身振りを調整するというのは、かなり苦戦したと言える。


 そもそも、UTASカードの管理室に行って、ポケットにあるブランクカードの権限を自分のカードに付与し、ブランクカードを校長に返さなければならない。入学式が終わって、みんなが校舎に残る気にならないうちにこれを済ませないと、後で不必要な問題が生じるだけだ。


 教学棟で東奔西走で手続きを済ました後、時間が午後2時に近づいた。寮舎棟での大食堂はまだ開いているはずがないので、僕はエレベーターに乗ってホールに戻り、教学棟の端にある小さなカフェに到着した。ハムサンドイッチを選び、ドリンクエリアでMTDを取った僕は、レジに辿って職員にチョコレートバー一つを頼んで会計する。そして、隅にある席に座ってオンライン小説の連載を読みながら、このシンプルなランチを楽しむ。


 ──どうせ今日は人が少ないんだから、あの部屋に置かれているピアノを試しに弾いてみよう。


 残り半分のMTDをカバンに入れ、カフェの反対側にある図書館に向かった。滞在時間を考慮して、途中でコンビニに寄ってミネラルウォーターを3本買った。図書館の入り口の改札をカードで通過した後、僕はこの学校で最も静かな場所に入った。


 ◇


 身近の長机の上に小説が置かれている。偶然通りかかった僕は、小説の表紙に印刷されたタイトルと作者に目を向けた。


 小説の作者は有名な文豪だった。しかし、ほとんどの人が知らない、または関心を持たない事実は、この小説が彼のある崇拝者、または「学生」とも言える人物の日記を盗作して作られたものであるということだった。


 いや、それは正確な表現ではない。その名声高い文豪は女学生に「日記を書いてほしい」と、それを自分の創作の素材にすることを要請した。彼が支払った代償は、この崇拝者と体の関係を持ったことだけだった。それは女学生自身が提案したことだったのだが、彼女はこの文豪の子を産みたかったからだ。


 小説は出版され、赤ん坊が生まれた。文豪は自分の名前から1文字を取って、赤ん坊に名前をつけた。すべては自然な流れであったが、彼はもう1人の愛人と心中するまで、その私生児に会ったことはなかった。


 数年前の僕は、本屋でこの文豪の私生児が書いた回想録のような本を偶然見つけた。


「なぜ、そんな目的のために私を産んだのか」──その名声高い女作家がこのような疑念を抱くかどうかは分からない。だが、もし僕が彼女ならば、多分そう思うだろう。


 考えてみれば、創作素材を要求し、体の関係を持った後に無視するという大言不惭な行為は、「無頼」という文豪に対する評価に非常に相応しいのかもしれない。


 彼のように、創作の分野で突出した業績を持っている一方で、私生活が非常に混沌としている人々がまだたくさんいる。


 カバンにまだ入っているあの四巻の長編小説の著者を例に挙げよう。文壇で成功を収め、死後は国葬の待遇を受けたその伝説的な小説家は、小説の中で自分の正妻と愛人を一つのキャラクターに融合させたことをためらうことなく行った。これは彼が初めてそうしたわけではなかった。数十年前、彼は詩集に2人の女性にそれぞれ愛情を告白した異なる作品を収録し、彼の妻を密かに恋慕していた文学評論家を激怒させた。


 皮肉な話ですが、この評論家と小説家が決別した原因は、評論家と彼の妻の秘密の関係がバレたわけではなく、小説家が当時女優だった愛人に恋に落ちたためだった。そう考えると、文学評論を独立したジャンルにしてしまったこの評論家は、同性愛者なのかもしれない。


 似たような同性愛者には、ピアノ協奏曲が二分半にも及ぶプロローグ以外のものであることを、聴衆がほとんどが忘れさせてしまうような作曲家がいた。有名な悲恋をテーマにした交響序曲には、彼が19歳で自殺した男子生徒に対する感情が含まれていると言われていた。その改名を繰り返す都市には彼の同性の恋人がたくさんいて、結婚というのは虚談に過ぎなかった。そして、人生最後の作品を書くまでは、甥と同性のパートナーとして幸せに暮らしていた。彼の死さえも、表向きはコレラで死んだが、実際は自殺で、性的指向を告発された結果だと主張する人もいる。


 正直に言えば、ネットが高度に発展した情報時代において、これらの内容を発掘するために多大な努力を必要とするものではない。しかし、世の中の大多数の人々は依然として表面的なことに没頭しており、水面下の真実に対しては何も知らないか、見て見ぬふりをしている。


 新入生代表挨拶をする時、喝采を送り拍手で返した同級生たちや、放送で挨拶を聴いた上級生たちは、私がノートに赤いマーカーで書いた内容が、何億の人間を地獄の深淵に引きずり込んだ人物のスピーチスタイルだったことを知るはずがなかった。


「真実を知らない、あるいは見て見ぬふりをしている人のほうが、幸せかもしれない」


 ──と心の中でつぶやきながら、図書館の中央にある螺旋階段に向かう。


 ◆


 螺旋階段を下って地下一階に入ると、無視できない湿った冷たさが感じられる。ホールに繋がる上層とは違い、下層はほとんど地下に埋もれている。後ろを振り返ると、「緊急脱出口」と書かれたドアが閉じている。


 僕が寮に荷物を運んだとき、寮を管理している先生から、このキャンパスはもともと天道大学UTの旧キャンパスで、校舎の下に大きなガレージがあると聞いた。ガレージに通じると思われるこのドアを開けることができるのは、学校のセキュリティーを担当する教師と図書館の管理者のUTASカードと、校長が持っていたブランクカード、そして──


 僕は、権限付与の時に見たプログラムのログを思い出した。


 > AVAILABLE KEY: ALL

 > AVAILABLE TIME: 00:00:00-23:59:59

 > VALID SINCE: 19XX-XX-XX

 > VALID UNTIL: 20XX-XX-XX


『この学校がこのようなポジティブな雰囲気に包まれることができるのは、君の母さんのおかげだ。二十年以上に経っても、『黒の生徒会長』の伝説はまだ校内に残っていますね』


 入江校長の言葉が脳裏に浮かび、僕はその時に浮かんだ別の考えを思い出した。


 ──大いなる責任を背負うと、大いなる力を発揮しなければならない。


 あの女は、この学校に通っていた頃のことをあまり話していなかった。しかし、もし彼女が高校3年間ずっとそのブランクカードを持っていたのであれば、おそらく——


 恐ろしいほどの可能性を想像する。


 僕の記憶では、親友の家に連れていったとき、あの女が親友たちと不在の女友達のあれこれを評価する時間が大半を占めていました。そして、その評価の対象には、不在者の子供たちも含まれていた。


 そうだとしたら、あの女はこの学校に通っていた頃から、自分の子供がこの学校に入ることを既定事項として考えていたことになった。彼女がこの学校でしたすべての貢献は、この子供が学校で自分の望むようになるためだった。


 レール上を走る列車のような僕には、速度を勝手に調整することができないし、脱線したりすることなど想像もできない。


 ——早くピアノを弾いて、頭を冷静にしなければならない。


 振り返った僕は、なるべく音を立てないように足早に通路を歩き、非常口の反対側にあるドアの前まで行くと、ポケットからカードを取り出して電子ロックにスキャンする。


 短く尖った開錠音にびっくりし、あわてて滑った足が地面で耳障りな音を立った。左右を見回し、読書スペースには寝ているようにうつぶせになっている女子生徒しかいない。彼女は少し動いたが、起き上がる気配はない。


 ——もしこんな姿をあの女生徒に見られたら、運が悪すぎる。


 僕は急いでドアを軽く開け、中に潜り抜けてから静かに閉め、見えない暗闇の中に入った。スマホを点灯させると、下へ続く階段が目の前に出現する。階段の段数と高さをおおよそ覚えた後、壁に手をかけて直感で最後の一歩まで歩き、部屋に到着した。


 ◇


 ——こんなことになるとは知っていたら、寮舎に戻って、スーツケースの中から厚手の服を先に持ってきたのに。


 この部屋は換気設備が年中動いているようだが、空気は冷たく湿っているように感じられて身震いする。環境に適応するのに10分ほどかかり、ピアノの椅子を高さ調整した後、僕は練習の前菜としていくつかの基本的な曲を選ぶことにした。


 両手の感覚を取り戻すように大まかにやった後、記憶から取り出した曲を、目の前にある白黒の鍵に指で出力し始める。


 前奏曲とフーガ。ソナタ。練習曲。幻想曲。


 バッハ。モーツァルト。ベートーヴェン。シューマン。リスト。


 次に、頭の中にある交響曲や協奏曲などの大きな楽曲をピアノで演奏できる形に変える。これは楽譜を理解するために要求されるスキルであり、ネットでピアノ版が手に入れない場合は、総譜に記載されている内容を取捨選択する必要がある。声楽やピアノの学習をしていた頃は、楽理については暗記するしかなかったが、ここ一、二年でようやく総譜を読んで各パートの声を正確に頭の中で再生することができるようになった。それでも僕が演奏できるのは、比較的複雑でない曲に限られる。


 いつの間に、時間が指先の下で飛び越えていく。この空間に逃げ込んだ時の恐怖も、今やほとんど消えていた。


 譜台に置いたスマホをチェックすると、午後4時になっていた。


 最後にもう一曲弾いて、そろそろ寮に戻ろう。深呼吸をして左手を上げ、最初の音符を弾いた。


 バッハ『フーガの技法』BWV.1080、コントラプンクトゥスXIV。


 ネット上で見た情報によると、バロック時代には、ピアノという楽器はまだまだ発展途上にあった。だから、バッハの曲をチェンバロで演奏するのが正しいだという意見もある。確かに楽器の音色は演奏する際に考慮すべき要素の一つであるが、対位曲の場合には、その「表象」がそれほど大きな影響を与えることはない。


 なぜなら、「BACH」という主題動機が、どの楽器に演奏されても同じ音高の音が出るからだ。


 この対位曲の三つの主題がはじめて同時に現われた直後、僕は指の動きを止め、部屋には静寂が広がった。同時に、異様な感覚が襲いかかる。


 ——上から音が聞こえてくる。人の声だった。


 僕は三歩くらいで部屋を飛び出し、軽く身をかがめて階段を上り、ノブを回してドアを開ける。


 図書館側のドアからこの部屋に通じる階段を入る前に見た、机の上で寝ていた少女が、こうして僕の目の前に現れた。

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この天才な僕に、恋してください。 きりん @reekilynn

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