Day30 貼紙

 俺が彼女の部下になったのは、高校を卒業した翌年。茹だるような暑い夏の夜だった。

 眠気を熱帯夜に殺された俺は宛もなく地上を彷徨い、気紛れに夜空を見上げた。星は瞬いていなかったと記憶している。星々が街のネオンに負けていたわけではない。単純な話、薄く張った雲の裏側に隠されていただけである。

 どれだけ歩き回ったのか定かではない。けど、脹ら脛が痛みを訴え始め、全身から噴き出す汗に好い加減我慢ならなくなった頃。一枚の貼り紙が俺の眼に飛び込んだ。それは電柱に貼り付けられていた。まるで迷い猫のポスターか、空き物件のチラシのように。

 内容は、眷属の募集だった。当時は全く、ぴんとこなかった。何せ【こころやさしい、なかま、ぼしゅう】と書かれていたので。心優しい仲間がイコール眷属だなんて誰が思う。俺は日給一万円に惹かれた。ポケットから携帯電話を取り出し、一番下に記された一〇桁の番号に電話を掛けた。その日から、彼女は俺の上司になった。


 俺が彼女と顔を合わせたのは、その数年後。やっぱり茹だるような暑い夏の夜である。

 彼女の眷属業は悪くなかった。稀に無理な要求や、無茶な指示が出されることがあった。労働基準法も適応されなかった。けれど総合的には悪くなかった。そうして幾歳が過ぎて、或る夜突然、目の前に現れた。

 彼女は毎回、電話で要求や指示を下した。スピーカー越しに聴く声で容姿を想像しながら、俺は従順に「イエス」と応えた。部下として当然の義務だったから。

 けれど彼女の姿を眼にし、肉声を耳にして、すっかり心を奪われてしまった。見蕩れてしまった。その瞬間、眷属業は義務ではなく、幸福に変わった。ほぼあらゆる感情を捧げても構わないとさえ思った。でも。

 恋とか愛とか、その手の感情だけは、いつまでも手放せなかった。どんなに彼女が魅力的でも。紡ぐ言葉が悪魔的でも。ふたつの感情だけは可愛くて謎めいた後輩のものだった。

 正直に告白しよう。恋や愛なんて不確かな感情、見つけるまで非常に骨が折れた。

 いや、この表現は正確ではない。感情自体は何年も前から自覚していた。いつ芽生えたかは別にして、ずっと昔から鎮座していた。

 けれどその感情に、なんて名前を付ければ正解なのか分からなかった。部屋のポスターを貼っては剥がし、しっくりくる場所を探すように。何度もラベルを貼り付けて、納得できないから剥がして。新しいラベルを貼った。幾度も貼り直した。繰り返すことは苦じゃなかった。大切だから何度でも出来た。出来過ぎて恐ろしくなった。だから離れた。後輩と、彼女の傍から。


 でも、俺は戻ってきてしまった。戻らざるを得なかったと言っても良い。上司が〈黄昏の魔女〉となった噂を聞き、闇よりも深い場所で『WANTED』の文字と共に後輩を見たから。俺は愛おしい女の子の傍に身を置いたのである。全てを捨てる覚悟を決めて。

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