Day26 標本

 なんの脈略もなく唐突に、先輩が

「君の標本を作りたい」

 と言うので耳を疑った。つまらない冗談かと思った。が、冗談にしては真剣すぎる表情だ。聞き間違いだと結論づけて、もう一度、言って欲しいと頼む。

 先輩は一言一句違うことなく繰り返す。

 君の標本を作りたい。

 聞き間違いではなかった。ついでに冗談でもなかった。小脇に抱えられた書物の背表紙へ、ちらと眼を遣る。昆虫標本の作り方。エンバーミングのあれそれ。ホルマリン漬け読本。

「……先輩、ネクロフィリアでしたっけ?」

 ネクロフィリア。死体に性的な興奮を感じる嗜好。

「まさか」と首を振る先輩。

「セックスするなら生きのよい人間が良い。あと、君に性的興奮を抱いたことはない。悲しいけれど」

 ごめんね、と両手を併せて謝られた。いや、別に良いんですけど。

 どこから手をつければ良いのだろう。先輩の口から“セックス”なんて単語が飛び出したことがショックだし。異性である私へ「性的興奮を抱いたことがない」と宣ったことを喜ぶべきか怒るべきか、落ち込むべきか分からない。取り敢えず性的倒錯者じゃなくて安心した、としか言いようがない。

 けれど、それならば何故「君の標本を作りたい」なんてトチ狂った発言をしたのか。

「標本って、あれですよね。適切な処理をして奇麗に保存するやつ」

「うん。それ」

「……そういう遺書を残せ、ということですか?」

「遺書?」

 頭を横へ傾ける先輩に「死後、私の遺骸を先輩に譲渡します、みたいな」と続ける。

 ああ、と納得したふうな声を上げた先輩は、違うと首を横に振った。「そうじゃなくて」と小さな声で言いながら頬を赤らめる。

「美しいままで一生、そばに置いておきたいんだ。で、俺が死んだら同じ柩に入れて、一緒に火葬してもらう。遺言は用意した」

 エンバーミングのあれそれな本から、真っ白い封筒が取り出された。気軽に差し出されたので仕方なく受け取る。視線に促されるまま、閉じられていない口を開いて中を覗いた。三つ折りの便箋が一枚。亀よりも遅い動作で引き抜いて、重なった部分を上下に開く。

 果たせるかな、便箋には確かに先輩の言が記されている。先輩の奇麗な筆跡で。

 ひとつの柩に二人の人間を納めるなど可能なのだろうか? 法律の知識がないので分からない。

 けれど、ちょっと魅力的だと感じた。恐ろしくないと言えば嘘になるけれど。先輩の手で美しさを保ち、彼が一生を終えるまでそばに置かれて、死後も一緒に居られるなら。堪らなく幸福だ。

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