Day19 氷

 酷暑の影響で個体数の少ない蝉の合唱を聞きながら、私はガラスのボウルに氷の粒を集める。自然発生したものでは勿論ない。傍らで彫刻の制作に勤しむ先輩が生み出したものだ。

 先輩は何故か氷の像を作っている。


 その氷は突然やってきた。

 黒猫の親子を企業ロゴに掲げた宅配業者が運んできたものだ。平均身長よりやや高い痩躯の先輩が、やっと抱えられるほどの発泡スチロールに収まっていた無色透明の立方体。奇跡のような透明度に、私は思わず感歎の声を洩らした。

 対して先輩は特に感動した様子もなく。てきぱきと発泡スチロールから氷を取り出した。そして桐のまな板の上に置き、のみ(殺菌消毒済み)とハンマーで黙々と彫り始めたのである。この話を聞いた十人中九人が「何を言っているか分からない」と首を傾げるに違いない。因みに、九人の中には私も含まれている。そして、唯一理解できる一人が先輩である。

「何を作っているんですか?」

 私の問いに、先輩は難しいカタカナの名前を挙げる。響きの感じからしてギリシャ語っぽい。続けて意味を尋ねたら簡潔に「女神」と返された。ギリシャ神話に登場する神の一柱らしい。

 生憎、神話の類に明るくないので、神の名を言われても全然ぴんとこない。

 けれどハンマーを振りかざし、ひと彫りひと彫り丁寧に氷を削って女神の像を作る先輩は、さながら創造神に見えなくもない。胸元に大きく『I♡SABA』とプリントされた白Tシャツに、黒のハーフパンツ。黄色のクロックスを履いた創造神なんて嫌だけれど。まあ、昨今の温暖化事情を考えたら、神様だってラフで涼しい格好をお召しになりたくなるかもしれない。

 一息入れようと手を休めた創造神へ

「いちごとレモン、どちらが良いですか?」

 と訊く。

 一言「ビール」と答えたのでブルーハワイの瓶を取る。人工的な青色をガラスのボウルに盛られた氷へどばっとかけて、はいと差し出す。創造神は顔を顰めて舌を出す。

「選択肢のどれでもないじゃん」

「選択肢のどれでもない答えを出したのは先輩です」

「まあ、そうだけど」

 だったらレモンが良かった。と呟く先輩に濃縮一〇〇%のレモンの瓶を見せる。口を噤んだ先輩がボウルを受け取ってくれた。素直で大変よろしい。

「これ、食べて大丈夫?」

 しゃりしゃりと頬張りながら尋ねてくる先輩。

 私はいちごシロップを垂らしながら「たぶん」と答える。

 たぶん、と反復する愉しげな声。

「心配だなぁ。腹壊したらどうしよう」

「天然氷ですし、地面へ接触する前に拾ってますから、大丈夫です。きっと」

「この、何? 削りかすって呼んで良いのかな。これ食べようとした人、君が初めてだよ」

 以前、氷像作りに携わった時には、みんな捨ててしまったのだとか。勿体ないけれど、その氷は食用ではないので食品ロス問題は考えなくて良いと思いますよ。

「君、食品ロス問題の解決のために、これ食べてるの?」

 如何にも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに笑う先輩。湿気と熱を多くはらんだ空気を震わせる高笑いに、私の機嫌は夏の空模様の如く急速に悪化する。

 けれど、暫くして完成した氷の女神像に、機嫌はすっかり回復した。内側に鋭さを、表面にぬるりとした輝きを纏った姿は妙に艶めかしい。熱いのに冷たいとは正にこのこと、と思う。

「見事です」

 純粋な讃辞に、創造神は「ありがとう」と返す。

 ずっと残せたら良いのになぁ。

 スマホで記念写真を撮りながら零れた呟きに、創造神は眉を顰める。そして丁寧に「それは無理だ」と否定した。


「そうですよね。捨てますよね、溶けるし」

「何言ってんの、食べるよ」


 食べるんですか。貴方も、結局。

 名前も存在もよく知らない。ギリシャ神話に登場する女神の氷像は、無慈悲にも即座に砕かれた。遺体は清潔なビニール袋に入れられ、冷凍庫にしまわれる。

 その夜に呑んだビールは、いつも以上に美味しかった。氷ひとつでこんなにも味が変わるとは! 先輩と私は夏の驚きに感動し、意味のない乾杯を繰り返す。黄金色の液体の中で砕かれた女神が、からんと音を立てた。

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