Day9 団扇

「ちょっと見てくれ」と、先輩が一本の団扇を掲げる。

 なんの変哲もない団扇。骨は白いプラスチック製で、猫の写真が印刷された紙が張られている。その猫は、街で最も有名な虎猫だ。名前はラスティ。捨て猫だった彼は、神隠しの如く失踪した子供を発見した。子供自身が供述したのだ。「あの猫が助けてくれたの」と。捨て猫は英雄となり、『ラスティ』の名が与えられた。子供の家に引き取られたと聞いているが、街中でよく見かけるので、元捨て猫らしい気儘なにゃん生を謳歌しているのかもしれない。

「これが、どうしたんです?」

 ラスティ可愛いですね、と言ったら「カラスの方が可愛い」と返された。先輩の価値観が分からない。

「こいつは幸福を齎すんだ」

「はぁ」

 幸福。

「信じてないな?」

「というより、よく意味が分かりません」

 幸福を齎す団扇、とは。つまりどういうことなのだろう。団扇が齎すのは風だけではないのか。それとも、その風こそが幸福だとでもいうのか。確かに盛夏の折には団扇の風も涼しく感じるけれど、昨今では手持ち扇風機の方がよほど幸福を齎してくれると思う。吹き付ける風が強いし、何より楽だ。

 そう応えると先輩は「ち、ち、ち」と音を鳴らして団扇を左右に揺らした。

「まあ、見てよ」

 先輩が団扇を扇ぎ始める。私に向かって。ひと振り、ふた振り。すると、幽かに甘い香りが漂ってくる。振れば振るほど香りの濃度が増し、花の匂いだと分かった。星屑のような輝きが宙を舞う。ラメかと思って手を伸ばした。が、指先に触れた瞬間、ぱちんと爆ぜて消えた。不思議と熱くはなかった。寧ろ冷たかった。

「どんな仕組みなんですか?」

 興奮で少し声が上擦る。

「魔法さ」

 そんな言葉では流されない。確かに先輩は魔法が使えるらしいけれど、先輩は魔女ではないし、魔女に弟子入りした魔法使いでもない。そんな話、聞いてない。聞かされてもいない。先輩は人間である。人間は魔法が使えないけれど、化学は扱える。そういう種族に属している。

「信じてないな?」

「当然です」

「じゃあ振ってごらん」

 ひょい、と柄を差し出される。

 私は受け取って、先輩に向かって扇ぐ。ひと振り、ふた振り。無香料の風が先輩の前髪を巻き上げる。星屑も煌めかない。ほらね、とでも言うような表情が悔しくて堪らない。

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