Day8 さらさら
昔――学生時代の時。友人に魔女がいた。
勿論、本物ではない。彼女は歴とした人間である。魔女とは渾名だ。透けるような白い肌を持ち、青みを帯びた黒髪を腰の少し上あたりで切り揃え、ルージュを引かずとも赤い唇は薄い。その容貌だけを見れば魔女というより、お伽噺に登場するお姫様が相応しい。喩えば、喉に詰まった毒リンゴが或る拍子に外へ飛び出して生き返り、己を殺そうとした母親を王子との結婚披露宴に招いて、熱した鉄の靴を履かせて死ぬまで踊らせた美しい王女とか。
魔女と呼ばれる要因は美貌の他、彼女の行動にあった。彼女は黒い小瓶を片時も離さなかった。お守りだ、と言って。そして夕暮れになると街を見下ろせる丘に立ち、不思議な詩を呼んだ。いや、本当は詩ではないのかもしれない。私は詩だと思ったけれど、何しろ日本語ではなかったもので。私も同級生も、日本語以外は英語(それも学校の授業レベル)しか分からなかったから、彼女がどの言語を使っているのか判然としなかった。フランス語にも聞こえたし、イタリア語にも聞こえた。ドイツ語っぽい感じもあった。
とにかく「英語以外の外国語」で淡々と紡がれる言葉を耳にした一部の同級生は、呪文を唱えていると思ったらしい。両手で小瓶をぎゅっと握っている姿も、祈りというより呪いじみていた。そこから話が伝播して魔女の渾名がついたのである。
彼女の詩は(私自身が詩だと判断しているので詩で通す)実に不思議だった。内容は微塵も理解出来ないけれど、聴いていると落ち着く。そして時偶、詩の後に願いを口にする。今度は日本語で。特別な願いではない。明日は晴れますように、とか。眠れない友人に優しい夜が訪れますように、とか。学校行事が無事に成功しますように、とか。そういう細やかで何気ないものだ。魔女の願いは、いつも誰かの為だった。自分の我が儘を叶える願いは一言も言わなかった。夏の或る夕方を除いて。
高校二年の夏。彼女は、彼女の願いを風に乗せた。
「あの人が欲しい」
あの人が誰なのか。私は知っている。私は魔女の友人だったので。彼女が校内で誰に視線を注ぎ、街の人混みで誰の姿を求め、似た背格好の人間に誰を重ねているのか。全て見ていたからこそ知っている。あの人が欲しい。その、シンプルだからこそ強く直向きな願い事に、私は異様さを感じずには居られなかった。
彼女の言には呪いがかかっていた。私は正真正銘、なんの変哲もない女の子である。極々平凡な小市民の両親から産まれた女の子。魔女でも、なんでもない。けれど、その時だけは「ああ、これは呪いだ」と思った。あの人が欲しい。簡潔で、裏表のない。額面通りの言葉。私を鋭く、真っ直ぐに睨みつける魔女の瞳。あの人が欲しい。その願いに込められた呪詛。
あの人が欲しい――だから、邪魔な貴女には消えて欲しい。
人を呪わば穴二つ。
同年秋。魔女は消えた。
行方は誰も知らない。友人だった私も知らない。彼女は宣言も、挨拶さえ残さず姿を消した。私は先輩に「魔女の行方を知っていますか?」と訊いた。先輩は「さぁね」と返した。本当に? あれだけ彼女の瞳に映っておきながら、知らないの? 疑問は浮かんだけれど追求はしなかった。追求したって意味がない。感情は違えど重さは同じだ。あの人が欲しい。だから邪魔な貴女には消えて欲しい。
今も、先輩の髪が夏風に揺れる度、魔女を思い出す。先輩の姿に彼女を重ねる。
「先輩」
「なんだい?」
振り返らない背中へ、私は尋ねる。
「魔女の行方を教える気、ありますか?」
先輩の返答が笹の音色に浚われる。それで良いと思う。淀みなく終わった物語は素晴らしいから。喩え、どんな結末だとしても。
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