第3話 ふにゃふにゃの広末さん

「中川さんて酒豪ですー?」

「そういうわけでは」

「いや酔ってないじゃないですかー酒豪ですよーしゅーごーうー」


 みほは人並みに飲める程度でけして酒豪などではない。

 広末さんが弱すぎるのである。


 ラウンジに入ってから、かなりの時間が経過していた。店内には時計がなかったので、そっと携帯を確認すると、すでに一時間ほどたっている。最初は間が持つのか心配していたのが噓のようだ。

 広末さんはティーリストを開いたり閉じたりしていたが、動作に機敏さを欠いていた。

 ティーリストに載っているのは紅茶だけで、アルコール類はない。たしかグラスのゼリーからやや強めにお酒の匂いがしたのと、焼き菓子のどれかでも感じたが、みほはちょっと入ってるなぁ、と思った程度だ。こんなふにゃふにゃになる人も珍しい。実は広末さんの紅茶にだけアルコールが混入していたのではないかと疑いたくなるほどだった。


「中川さんはぁ、最近がんばってますかー?」


 しかも若干、絡み酒だ。

 職場で上司なんかにやられたらうっとおしいだろうが、広末さんに関してはおもしろさが勝っている。


「どうですかね。まぁ一生懸命こなしてるってかんじですかねぇ」

「そうなりますよねー!」


 想像 以上に身の入った同意を示しながら、ぐいーっと紅茶をあおる。出てきてから時間が経過しているので、やけどの心配はない。続いて手にしたサンドイッチにかみつくと、反対側から具がはみ出てぽろっと落ちる。


(子どもかー!)


拾ってあげるにはケーキスタンドとカップが邪魔なので、そのままにしておく。みほも同じサンドイッチが残っていたので、つまんで口に入れた。薄く切った鶏のローストはやわらかく、噛みしめるとスパイシーな香りが広がった。また甘いものが食べたくなる味。甘味の合間にふさわしい。

 サンドイッチを堪能しながら広末さんの様子を見守っていると、次は両手が中空でさまよいはじめる。まるで、ろくろを回しているような動きだ。


「いや……こう……我々って、本気ではがんばれないじゃないですか。打ち込めない、っていうんですか?」

「はぁ」

「若いときは日付が変わってでもすんごい資料を作ってやるぞって、休日も返上して仕事しかないって思ってましたけど、今はそういうの無理じゃないですか」

「それはそれで問題のある働き方な気がしますが……」

「よく言われますー! でも子どもが生まれてからは、時間がないのもありますけど、精神的に、こう、何か一本に注力するのが難しくないですか、子どものことは父親くらいしか代わってくれないわけですし」


(酔っててもけっこう難しいことしゃべるな、この人……)


 ろくろを回す姿勢から、今度は両手をシーソーのように互い違いに揺らしはじめる。腕につられて身体もぐらぐら揺れているさまは完全に酔っ払いのそれである。


「しいていうなら、仕事とー、子どものこととー。家事とかもろもろとー、バランスをとるのをがんばってるくらいじゃないですか。でも職場の同僚や、保育士さんや、家族っていう、それぞれの場所の人からすると、常に全力を出してないように見えると思うんですよ」


 言っていることは、よくわかった。

 仕事は決まった時間で切り上げることや、子どもが急に体調を崩すことを考えると、量をセーブせざるを得ない。家事もほどほどにしかできない。三つどれもにリミッターがかかっているが、はためには「あまりがんばっていない」とか「ゆるくやっている」ように見えることだろう。


 ものすごく嫌なことも、耐えがたいこともない。旦那との仲もよくて、家事は自分の方が多めにやっているが、時短で勤めていることを考えれば公平だと思える。子どもとのささいなやりとりが、ときに楽しく、ときにわずらわしく、でも全体としては楽しい、そんな毎日。

 でも──どこか、日々の生活に精彩が欠けている。

 食べたいもの、やりたいこと、好きなことを、いつのまにか忘れている。


 そんなに悪い暮らしでもないから、愚痴をこぼすのも抵抗がある。


(ああ、でも、そうじゃないのかも)


 みほは、もともと、愚痴っぽいのが嫌いなのだ……たしか、そうだった。できるなら、さっぱりと生きていきたい。

 気持ちを切り替えるように、明るく言う。


「じゃあ、私たちで褒めあえばいいんじゃないですか? 同じ立場だから、わかりますよ、その気持ち」


 言ったとたん、広末さんがクワッと目を見開いてこっちを凝視した。


(その手があったかー!っていう心の声が聞こえたなぁ)


「じゃあ褒めてください中川さん! よろしくお願いします!」

「ええ?」


 酔っ払いならではの勢いに押され、みほは若干、身体をのけぞらせた。しかし期待をこめた目で見つめられたので、しかたなく考えをめぐらせる。


「えーと。広末さん、たしかフルタイムで働いているんですよね、お迎えの時間もかぶらないですし。まずそこがえらいです。私は時短なので、仕事がんばってるなって思います」

「まぁ仕事は好きなのでー」

「でもやっぱり家事の時間も限られるし、大変じゃないですか? 保育園に持っていくものをそろえるだけだって、けっこう手間じゃないですか。毎日えらいですよ」


子ども相手ならともかく、大人に面と向かって「えらい」と口にするのは、なかなか気恥ずかしいものがある。

照れながらも褒め終わると、がしっと手を握られた。両手で、しかも力強い。ケーキスタンドが倒れないか心配になった。


「ありがとう! ありがとう! 中川さんもえらい! がんばってる!」

「ど、どうも」

「中川さんは時短でしたっけ? 時短は時短でつらさありますよね、自分の職場でも、もっと仕事しろよ圧があって、そういうのやめろって思うんですけど! 私は単に仕事がしたいだけなんで、ちゃんとお子さんのこと考えててえらいです。でも本当に、お休みの日でも子ども預けて息抜きはした方がいいですよ!」


声がでかいので、ちょっとまわりが気になった。

 左右に視線を走らせたのは周囲が気になったからだが、真正面からてらいなく褒められるのが照れくさいからもあった。子ども以外と手をつなぐなんて、いったいいつぶりだろうか。

 恥ずかしくはある。でも、思いのほか癒される。


(中川さんもえらい! がんばってる!)


 手を上下に揺すられながら、広末さんの力強い「褒め」を、みほは頭の中で反芻したのだった。


 * * * *


 子どもたちを迎えに行って、一緒に電車に乗った。

 預けるとき、はじめての遊び場に緊張しているそぶりもあったが、同じ保育園の友達がいたのがよかったのか、楽しい時間を過ごせたようである。気に入ったおもちゃの話を興奮ぎみに話していた。

 窓際を離れて走り出そうとするのを止めたり、笑い声の大きさをたしなめたりする合間を縫って、みほは広末さんに話しかけた。


「よかったら連絡先の交換しません?」


広末さんは、携帯を取り出しながら頷いた。駅で行き会ったときと同じ、まじめな顔に戻っている。ホテルのラウンジでのおもしろい様子が嘘のようだ。


「はい。よろしければ、またご一緒しましょう。ただ……」

「ただ?」


 少し声を落とす。子どもの方を気にしながら、こそっと呟いた。


「……あの醜態は忘れていただけると」


 つい吹き出しそうになる。醜態、ときたか。酔っ払いそのものの姿で、ろくろを回したりシーソーしたりしている姿は、どちらかというとおかしみが勝っていたが。いつになく恥ずかしそうなのもまた、笑いを誘う。


(やっぱり、けっこうおもしろい人だな)


 携帯に一件増えた連絡先を眺めながら、みほは思った。

 今度、なにかおいしいものが食べたいと思ったときは、広末さんに連絡してみよう。

あれこれくだらない話をして、感想をシェアして。時間をかけて、普段は食べられない特別なものを食べる。今日、来られなかったというご友人も誘ってもらってもいい。たまの息抜きがなくなってしまって、気の毒なことだし。

 誰かと、そう やって時間をかけて食べることが、きっと「なにかおいしいもの」の正体なのだ。

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