第2話 プレゼンをする広末さん

 三十分かそこらのあと、みほは、あのポスターの世界に入り込んでいた。

 正確にいうと、広末さんに連れられて何駅か移動し、例の大きなターミナル駅にあるホテルのラウンジにいた。

 高層階にあるラウンジは、天井が高く、壁いっぱいに窓がとられている。広く空を望めるせいか、開放感と高級感があった。空を模したような深い青の絨毯が、店内を落ち着いた雰囲気に演出している。

 ウェイターが、これまた例の、落としたらいっぱつで割れそうな白のカップに、優雅にお茶を注いでくれた。注文のときに広末さんが勧めてくれたお茶の名前は、残念ながらすでに忘れている。


「ごゆっくりおくつろぎください」


(ごゆっくりかぁ)


 ふんわりとただよってくる紅茶の香りを感じながら、なんとなく繰り返す。そばに子どもがいない休日というのも久々すぎて、どことなく落ち着かない。

内装と同じく、客層も上品なよそおいをしている。子どもがいたら、騒ぐのが気にかかってとてもくつろげなかっただろう。何駅か移動しただけで、子育てから遠い、縁のない空間に身をおけるのが、妙に不思議なかんじだった。

 テーブルのむかいに座った広末さんが、カップを持ち上げて一口、紅茶を飲んだ。


「急なのに来てもらえてありがたかったです。友人と予約していたんですけど、今朝になって子どもが熱出たって連絡があって」

「あー。あるあるですね」


 みほも紅茶を飲んだ。ごゆっくりかぁ、ともう一度、胸中で呟く。そこまで親しくないママと二人きり、というのは、完全にリラックスできる状況とは言いがたい。


(というか、なに話せばいいんだ)


 子ども抜きで雑談する、というのは久しぶりだ。昔からの友人をのぞけば皆無に近い。子どもが一緒なら面倒を見ながらになるから、会話はぶつ切りでたいした内容もない。子どもの方に話しかけることもできるし、遊んでいる様子から話題を思いつくこともある。

 同年代の女性と話をするときの呼吸がさっぱり思い出せない。とりあえず、無難な球を投げておく。


「わたし、保育園以外に子ども預けるのはじめてなんですよね。いろいろ教えていただいてありがとうございます」

「いえ、こちらこそ」


 最寄り駅でばったり会い、ホテルのアフタヌーンティーに誘われたときは、子どもがいるからと断った。だが広末さんも、駅近くの商業施設にある託児所に子どもを預かってもらう予定だという。友人と予約していたが急に来られなくなってしまった、よかったら代わりに来ないか、と誘われたのだ。

 みほには予定がなかったし、子どもを午後どう遊ばせようか迷ってもいた。それで、まぁいいかとOKしたのだ。


(服はちょっと場違いかもだけど……)


 きちんとしたラウンジに、今日のみほの格好はゆるすぎた。広末さんがパンツスーツだったわけを今更ながらに理解する。いや、もしかしたら普段の休日も同じ格好なのかもしれないが。あってもおかしくない、と思わせるものが広末さんにはある。


「休日にこういった託児サービスを使うことはあまりないんですか」

「まぁ、そうですねー。平日は保育園に預けてますしね、休みのときは一緒にいようかなと」


 みほが答えたところで、ポスターの中心に鎮座していた三段のケーキスタンドが出てきた。

 縁にレースを模した装飾のある皿に、かたちよく整えられた菓子類が並んでいる。さくらんぼがテーマらしく、小ぶりなケーキの上や、グラスのゼリーの中など、随所にあしらわれていた。焼きたての菓子があるのか、バターと砂糖の甘い匂いがただよってくる。

 紙の上で見たときは、食べたいかな、どうかな、というぼんやりした感想しか抱けなかったが、こうして目の前にすると、テンションが上がった。広告やSNSの他人の写真を眺めるだけでは感じない、新鮮な心の動きだった。


 ケーキスタンドは、上からケーキなどの生菓子の皿、焼き菓子の皿、サンドイッチなどしょっぱいものの皿に分かれている。

 どれから食べようか、迷った。ケーキの上のつやつやしたさくらんぼや、小さなタルトに見事な渦を巻くクリームや……小さな宝石たちの間を視線が往復する。

 いつもの食卓で、目に入った順から口に入れるのとは大違いだった。

 焦らなくていいのだ。今は、それだけの時間がある。


「わざわざ子どもを預けて遊ぶの、罪悪感があるって、今日来る予定だった友人も言っていました」

「まぁ……それは確かにありますね」

「でも、我々って、衝動的に休めないじゃないですか」


 広末さんはきっぱりと言った。声に力がこもっている。


「たとえば、今日はもうだめだー、って思っても、突然すべてを投げ捨てて休むことはできないわけです。仕事はどうにかなっても、子どものことはそうはいかないので。だから、もうだめだー、になる前に、ちょこちょこ息抜きしておく必要があると思うんですよ」


 滔々とした語りには、有無を言わさぬ説得力がある。みほは、広末さんの背後にホワイトボードを幻視した。仕事のプレゼンもきっと得意なことだろう。


「子どもが離れるのを嫌がっているなら別ですけど。でも、精神的に追い詰められている親と一緒にいるのもつらいでしょうし、そこはバランスじゃないですか」

「それは、まぁ、そうですね」


 みほは、託児所に預けたときの未来の様子を思い返した。はじめての場所に緊張している様子だったが、慣れているらしいひろとくんが物怖じせずにおもちゃのコーナーに走っていくのを見て、追いかけていった。もともと保育園の行き渋りもあまりない子である。

 未来が泣きわめいていたら、きっと預ける踏ん切りがつかなかっただろう。


「うちの旦那はシフト制のところに勤めているので、託児もそれなりに利用するんですが、旦那さんもですか? それか子どもを見ていてくれないとか」

「いえ、そんな」


 慌てて否定する。

 勇はいい旦那である。

 今日は、会社の部活サッカーの練習に出かけていた。今どき部活が機能している会社があるのかと思うが、やる気のあるメンバーが集まって、なかなか楽しいようである。最初に話を聞いたときは二週にいっぺんということだったが、最近では毎週、出かけている。

 そのことに不満はない。土日のどちらかは家にいるし、彼はちゃんと話のわかる男だ。おそらく、みほが出かけたいと言えば、きちんと予定を開けてくれるはずだった。


「単に──私に出かけたいところがないんですよね」


 言えば、子どもを見ていてくれると思う。でも、みほ自身に出かけるイメージが湧かない。休みの日は、子どもと一日過ごす姿しか思い浮かばない。

 食べたいものと同じだ。ぼんやりと、茫洋としている。好きなものや、したいことが、わからない。


「気持ちはとてもわかります。私もそうです」


広末さんはケーキスタンドの一番上の段、直径五センチほどのタルトを持ち上げて、ためつすがめつした。


「でも、やりたいことがないからやらない、というのは、あまりよくない兆候のように思うんです。なので、友人と示し合わせて、なるべく出かけるようにしています。一人だと動けないですが、他人がいるとそうでもないことも多いので」

「なるほど……」

「アフタヌーンティーもすごく好きというよりは、駅でポスターを見かけたので、行ってみようかと思ったんです」


 みほはつい広末さんの言葉に納得していた。本物の菓子を目にして心が浮き立ったことも、彼女の言葉に信憑性を与えていた。

 今しがた広末さんが手に取っていたタルトを持ち上げ、口に入れる。

 ほろりとタルト生地が口の中でくずれる。芳醇なバターの香りが鼻に抜けていった。濃厚なカスタードとサクランボの酸味が溶けあうのが快かった。

 感想が共有したくなったが、広末さんの手元を見ると、手にしたタルトをケーキスタンドに置きなおしている。


「えらそうなこと言ってしまいましたね。すみません」

「いえ、そんな」


 みほが小ぶりなスコーンにたっぷりとクリームを乗せて堪能している間に、広末さんはゼリーのグラスを持って何度か手元で回したり、ケーキに触れるか触れないかのところでフォークをふらふらとさ迷わせたり、一向に食が進まない。迷い箸ならぬ迷いフォーク。解けない難問にぶちあたったときのような険しい表情をしている。


「ていうか、めっちゃ迷ってます?」

「そうですね。迷っています」

「えー、意外。すごいテキパキ決めるイメージでした。おいもほりとか、過去イチ手際がよかったって保育士さんたち褒めてたし」

「それはね。人を動かすときってどうやればスムーズに進むか、だいたいセオリーありますから」


(わぁ、仕事のできる人だ)


 たいがいの人は、そのセオリーがわからなくて右往左往しているものである。

 そこかしこから垣間見える仕事のデキるっぷりと、険しい顔でケーキスタンドを眺めている今の様子には、かなりのギャップがあった。


「でもどれから食べるかって好みの話でしかないというか──ぶっちゃけ、どうでもいいじゃないですか」

「まぁ、そうですね?」

「どうでもいいから決め手がないんですよ。中川さんはどうやって決めてます?」

「え。てきとうです」

「そこをもう少し詳しく」

「ええー」


 そこからはもう、本当にくだらない話しかしていない。カスタード系と生クリーム系だったらどっちの味から食べるべきかとか、しょっぱいセイボリーをどのタイミングで挟むかとか。

 菓子は文句なしにおいしかった。味も、濃厚なの、すっきりしたの、口当たりがなめらかなの、サクッと歯ごたえが快いの、バラエティに富んでいる。みほはあまり詳しくないが、広末さんは紅茶にもこだわりがあるようだ。十種類以上のお茶の名前が書かれたティーリストを開いては、これまた長々と悩んでいるのだった。いくつか勧めてもらって飲み比べたりもした。

 おいしい菓子を口に運び、味を報告しあう。食べているものの味について、感想を述べる。

 どちらも最近の日常に欠けていたのだと、話しながら気づいた。


 なごやかに時間は進んでいく。

 このときのみほは、まさか広末さんがあんなことになろうとは思ってもみなかった。

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