とつぜんとつげきティータイム

乱数 カナ(らんすう・かな)

第1話 偶然会った広末さん

 なんかおいしいもの食べたいなぁ。


 みほがそう呟くとき、勇の答えは決まっている。ただのサークル仲間だった頃から、同棲と結婚をへて苗字が彼の「中川」に変わり、三歳の娘とつつましい中古のマイホームをもつ今にいたるまで、一貫して変わらない答えだ。


「じゃー焼肉、行くかぁ!」


 ただのテニスサークルの仲間だったころは、「よっしゃー!」と腕をまくりあげるジェスチャーをして、胃袋に詰め込む量をきそった。

 社会人になって、仕事の疲れを引きずりながら部屋でダラダラしていたときは、「それだー!」とやにわに起き上がり、化粧をはじめた。

 最近の答えは、こうだ。


「あー、うん。まぁ、いいかもね」


 内心では、そうじゃないんだよなぁ、と思っている。

 たしかに調理や片付けをしなくていいのは助かるし、子育てをするようになってからは臭いがつくことを気にするような服は着ていない。でももう、ビールと肉を好きなだけかっくらうほど胃腸が元気ではないし、何より外食には外食の面倒があるのである。

 娘の未来は、両親に似たのか肉が好きだが、近くの焼肉チェーンのタレは味が濃すぎる。キッズメニューもあるにはあるが、口に合うものがないようだ。親の言いつけも理解はするが他に気を取られることがあれば忘れるので、皿をひっくり返すのは言わずもがな、網に触ったり生肉をつついた箸を口に入れたりしないか、あまり気が休まらない。

 勇は、娘の食が進まないことをさほど気にしない。普段から家や保育園でじゅうぶんに食事をとっているし、たまには親の気晴らしを優先してもいいじゃないいか、と言う。そうじゃねーんだよなぁ、と、みほは思う。


 いい旦那だと思っている。言いたいことを我慢するような関係でもない。


 ただ、みほにはわからないのだ。

 なんかおいしいものが食べたいなぁ──と口をついて出るとき、

 自分がどんなものを食べたいのか、そのイメージがかけらも湧いてこない。

 焼肉はちがう……気がする。かといって反論するほど強い気持ちではない。そして代わりの案も見つからない。そんな状態で「なんかちがう」などと言っても、話がグダグダになるのが目に見えている。


 いったい自分はなにが食べたいというのだろう?


「さくらんぼ!」


 未来とつないでいた手が急にひっぱられ、みほは仕方なく立ち止まった。

 六月上旬の土曜日、駅の東西をつなぐコンコースは、都心にはおよばないものの休みの日なりに人の行き来がある。他の通行人に舌打ちでもされないよう端によりながら、みほは、娘が指さしたポスターを眺めた。


「そうだねぇ、さくらんぼだねぇ」


 ここから何駅か先の、大きなターミナル駅にあるホテルのポスターだった。季節のアフタヌーンティーセット、とある。

 中央には、三段もあるケーキスタンドが大写しになっており、一口か二口で終わってしまいそうな小さなケーキがていねいに並べられている。あれなに、これは、とせわしなく繰り出される質問に、サンドイッチ、ゼリー、スコーンとひとつずつ答えながら、自分には縁のない料理だと思った。ケーキスタンドの横に見栄えよくセッティングされたティーセットは、見るからに薄い陶器で、家のローテーブルから落としただけで割れてしまいそうだ。


(これ、食べたいかな?)


 食べたい気もする。

 そうでもない気もする。

 ここ最近の食卓に登場していない繊細なケーキの味が、うまく想像できない。


(そもそも甘いものって好きなんだったけな……?)


 自分のことなのにやばいな。

と、ちらりと思ったが、ゆっくり悩んでいる時間がないのも親の宿命だ。


「ママ、さくらんぼ、すき?」

「そうねぇ、すきかな?」

「はい、どうぞー」


 ポスターの中から未来がとってくれたさくらんぼを、モグモグと咀嚼する真似をする。幼い思いやりは、的外れなことはあっても、素直でかわいらしい。

 親に考え事をする暇なんてくれはしないのが、難点だけれど。未来はすぐにポスターから目を離して、往来する人たちを指さす。


「ひろとくんだ」

「えー?」


 娘が小さな手で、ん、ん、ともどかしそうに、みほの背後を指す。ひろとくん。たしか、保育園で同じ三歳児クラスの男の子だ。人の流れに目を凝らしたが、送り迎えのあまりかぶらない子なので見つけられる自信はなかった。未来は当然のように、同じクラスの十五人程度の幼児の名前を覚えている。幼いながら、自分とは別の世界があるのだな、と思う。


(どこだー)


 眉間に力を込めたとき、こちらにむかって会釈する女性がいた。

 パンツスーツに、前下がりのボブ。休日だというのに、今から仕事に向かうようなきっちりした格好だ。


(ひろとくんのママって、あの広末さんかー!)


 驚きを顔に出さないようつとめている間に、広末さん、それにひろとくんは近くまでやってきた。未来とひろとくんは、にひー、歯を見せて笑いあっている。思わぬところで会ったのがうれしいのかもしれない。


「ひろとくん、こんにちは」


 世間話がぱっと思いつかず、みほはとっさに子どもに話しかけた。談笑がとだえたとき、ついやってしまうワザである。

 他のママだったら天気の話だの子どもの服の話だの弾がそろっているのだが、どれを使うか迷ってしまった。ひろとくんのママは、どことなく相手を緊張させる雰囲気の女性なのだ。


(はー、休日なのにピシッとしてるよ)


 子どもを連れているということは仕事が休みなのだろうが、ジャケットにきちんと折り目の入ったスラックスを合わせている。控えめな金のバックルのベルトを見て、まちがいなくウエストにゴムが入っていたりしないと確信した。みほ自身は子どもが生まれて以来、ゴムウエストのワイドパンツばかり穿いている。ゴムが後ろだけに入っていて前からそうとわからないものを選んでいるのが、せめてもの見栄だ。


 広末さんといえば、保育園のママたちの間でも有名である。

 去年、園のおいもほりの係だったのだが、運営の手際の良さ、あざやかさといったら、係でもない親たちの間でも噂になるほどだった。未来の担任だった保育士さんが、こんなにスムーズに進んだことない、と言っていたのが印象的だった。


その、いかにも仕事ができそうな出で立ち。そこが他のママたちを緊張させる部分でもあるのだと思う。

 さっきの会釈も真顔だったし、今も子どもの様子を、笑顔を浮かべるでもなく眺めている。子どもの話に合わせてにこにこしたり、軽くうなずいたりもしない。しゃべるときに大げさな抑揚がついたりもしない。なんていうか、態度がいつでも職場にいるっぽいのだ。保育の場に慣れると、そういうビジネスっぽい態度がどことなくこわく感じる。


 子どもたちから注意を外さずに、広末さんの様子をうかがっていると、うっかり視線が合ってしまった。


「中川さん、ケーキお好きですか? あと紅茶も」


 だしぬけに、広末さんが訊いた。ねぇ、も、ちょっと、もないので反応が一瞬遅れる。そもそも、みほのことを気にかけていると思っていなかった。


「あー……どうですかね。最近はあまり食べませんね」


 突然だったのもあり、つい、ぼんやりした返答になってしまった。

 またあの問いが脳裏によみがえってくる。

 甘いものは好きだったかな、どうだったかな。食べたいものはなんだったかな。

 食事も旦那と子どもの好みに合わせていて、すっかり忘れてしまった。大げさながら、自分をぽっかりとなくしてしまったような感覚。


 広末さんは、ポスターを指して言った。


「よかったら、これ、今からどうですか。この後、ご予定なければですが」


(と、唐突~!)


 あまりに急な誘いだったので、みほは反応を返すのも忘れて固まった。この人の距離感はどうなってるんだ。そんな、保育園でもたまーに顔を合わせて挨拶する程度の仲だったはずだが、お茶に誘われるとは。

 固まっているみほに、広末さんはにこりともせず、まじめな顔で重ねて言った。


「人助けだと思って、来てくれると助かります」

「……はいぃ?」


 ケーキと紅茶で人助けとは、いったい。

 みほのすっとんきょうな声が気になったのか、子ども二人が不思議そうにこちらを見た。

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