錆び
もう限界だ。断末魔の叫びを上げるブレーキ、進むごとにカッタンカッタンとついてまわる異音は終末へのカウントダウン。騙しだましやってきたが、ここらが潮時だと重い腰を上げる。
街の自転車屋のおもてには『年に一度は定期点検!』と謳うのぼりが掲げられ、俺は自分の自転車を見下ろした。年一? どころか、買ってから点検してもらったことあっただろうか。プロならばそんなことはすぐに見抜くだろう。どうしよう、帰りたい。
「あら、お客さん?」
立ち尽くしたまま、体重移動だけで行きつ戻りつしていた俺に声をかけたのは、母親くらいの年代のおばちゃんだった。ぎしっと並べられた新車にもたれたまま、俺の返事も待たずに「おとうさーん!」と声を張り上げる。
「なあーに」
「おきゃーくさん!」
奥の戸ががらりと開いて、ランニングシャツにステテコ姿のおじいさんが出てきた。おばさんの旦那さんを想定していたが、これはリアルお父さんだ。痩せて骨は目立つががっしりしていて、心もとないのは髪の毛くらいのもの。金縁眼鏡のむこうからさっと一瞥されて、とっさに「怒られる」と思った。
「修理ですか、点検ですか」
「えーと、あの、たぶん、どっちもです」
「パンクは?」
「してないです、たぶん」
「はい、ちょっと貸して」
どら声だが思ったよりも口調がやわらかくて、すこしほっとする。店の主人はつっかけで出てきて俺からハンドルを受け取り、荷台をつかんでさっさと奥に運び込んでしまう。売り物の間を抜けてとぼとぼついていくと、中は思いの外ひらけていた。左側の壁面に前かごやワイヤーキー、反射板などの小物、右側には工具が種類別に掛けられており、隅にレジと小さな事務机が据えられていた。
「いつもは息子がやるんですがね」
「すみません」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだけど」
彼は「まあいいや」と自転車に向き直る。どう返すのが正解だったのだろう。俺は高齢者との会話に慣れていないんだ。
「早いほうがいいか、まるごと見ちゃったほうがいいか、どっちがいいですか」
「え」
「ほら、通勤通学で使うからすぐ持って帰りたいって人もいるでしょう。とりあえずーって」
「ええ、変な音がするんで持ってきたんですけど、そんなに乗らないので、全部みてもらえると」
「ふっふ」
彼はなぜか嬉しそうに笑う。
「じゃあ、分解しちゃおうか」
「えっ」
急にうきうきと茶目っ気を出し始めた目の前の老人に、俺は戸惑いを隠せない。どうなるんだ俺のチャリ。でもとっても気になる。
「分解、しちゃってください」
「ふっふ。明日までかかるよ」
「いいです、やってください」
「よし」
どっこいしょ、と事務机にかぶさって手書きの伝票をつけ始める。角張った筆圧の強い字でまずは点検基本料金。パーツ代の金額は空欄のままで、「これは交換したときに」と説明を受けた。名前と連絡先を書いて、基本料金だけ先払い。すると伝票の該当欄に〈領収済〉のハンコが捺された。
久しくお目にかかっていない、このアナログなかんじ。俺が興味津々で覗き込んでいると、店主が不意に振り向く。
「ちょっと見ていきますか」
「お、はい」
うっかり、という感じで返事してしまったが、実際気になっていたのですこし嬉しい。
「ちょっと待ってて」
道具でも取りに行くのか、店主は一度引き戸の向こうに姿を消した。手持ち無沙汰になった俺は、使い込まれた様子の壁面の道具を興味深く眺めて待つ。
がらら、と音がして目の前に何かが突き出されると、ふわっと冷気が鼻をかすめた。
「召し上がれ」
「わ、いただきます」
ミルクのアイスキャンデーだ。俺は目を白黒させながら受け取って、大人しくかじり始める。作業着に着替えてきた主人は、すでに自転車の点検に取り掛かっていた。
アイスキャンデー美味しかった……。が、それも一瞬のこと。
さて、この沈黙をどうしたものか。
沢村と暮らす間にいろんな人に引き合わされて、ちょっとはマシになったと思ったのに。俺の会話能力は錆びついて、うまく言葉が出てこない。この店はいつからやってるのか、家族でやってるのか、どんな依頼が多いのか、ところで失礼ですがおいくつで……苦し紛れの質問はあとが続かない。これじゃ下手なインタビューか見合いだ。ひとりで勝手に苦しくなりはじめた頃、カラカラと回るスポークを見つめたまま店主が言った。
「変な気まわさないで、黙って見てたらいいよ」
ぎくりとした。
やがてバラされた車体のパーツはきれいに並べられ、ひとつずつ磨かれていく。錆色の液体が落ちて、すこしずつもとの色が見えてくる。多いような少ないような、これだけのパーツを、全部見てくれるのか。
それからはふたりともほとんど喋らなかった。もうそれほど気まずさは感じない。錆はすべては落ちないし、脇に避けたパーツは交換が必要なものだという。
「そういうもんだからいいんだよ」
「そういうもんですか」
「そうだよ」
なるほどな、と何のひっかかりもなく納得して、黒ずんだ軍手の指先をいつまでも眺めていた。
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