労働者

鍋谷葵

労働者

 男は誰にも認められずに生きている。

 いや、その誰にも認められていないというのは実質的には異なる。男は生涯、家族以外から愛情を受け取ったことが無かった。あるいは、本当の感謝というものを受けたことが無かった。小学、中学 高校、大学時代も、今も。

 三十二歳となる男は、二十二歳で都内のある理工系の大学を卒業して以来、建設業の会社に施工管理職として就職し、今まで生きてきた。労働生活は、苦難の日々であった。初年度から想像を絶する激務を経験し、短すぎる工期を守るために、自由時間と睡眠時間を削り続け、今日まで、残業代未払いの薄給と、上司と職人の無理難題の下、手のひらと足の裏には豆を、身体には腰痛と難聴を抱え生き続けていた。

 一切の希望が見えない激務の日々は、山手線の線路を楽園として男に見せた。男は何度も何度も赤色の錆を纏ったレールに誘惑され、数多ものサラリーマンと学生とOLとでごった返すプラットホームから飛び降りようと足が動いた。しかし男は黄色い線の一歩後ろで、いつもいつも誘惑に打ち勝っていた。今日も同じく、誘惑に打ち勝ち、棒のような足を何とか動かさなかった。

 熱気と電車の騒音、そして過労により普段から靄がかかってはっきりとしない脳味噌は、男をワンルームのアパートに帰還させることに特化させていた。黄色い線の内側で、ぼんやりと立ち尽くす男合、深夜に帰宅する多くの者たちの波に押されて、小さな箱に押し込まれていった。蒸し返す車内は、男の思考にさらに靄をかけた。これは反って、男に良く作用した。男は何も考えられない方が良かったのだ。

 満員電車に揺られ、山手線のある駅で降りた男は、自らの住むワンルームのアパートに歩いて行った。途中、男はコンビニに寄って弁当と発泡酒を買い、夏の蒸し暑さが満ち満ちて、街灯ばかりが光る夜の道を歩いて行った。

 帰路につき、ようやく男は自宅に着いた。作業ズボンのポケットからスマホを取り出して時間を確認してみると、時刻は二十四時であった。日常の光景にすっかり溶け込んだその時刻は、男に何かしらの想いを抱かせることは無かった。

 熱の籠った部屋の電気とクーラーを点け、買ってきたコンビニ弁当をレジ袋ごと電子レンジに入れると、にわかに温くなった発泡酒の栓を男は開けて、一思いに飲み干した。そのまま男は何も言わず、玄関の前に置かれた冷蔵庫から三日前に買って、炭酸が抜け、半分程度残った2Lの炭酸水をグッと飲んだ。疲れ切った体に、安いアルコールと冷水は良く効いた。そしてこの時、男は今日初めて、いや、昨日を含め、初めて自分の心からの声を漏らした。

 冷たい水で冷やされた喉からこぼれる息は、冷たく、冷房が回り切っていない部屋の中では心地よかった。男は顔を綻ばせて、目を閉じようとした。しかしここで目を閉じたら、そのまま寝てしまい、明日の朝、不快な気分のまま現場に向かわなければならないことが分かってていたため、重い瞼を必死に開けた。

 いつも突如として襲ってくる睡魔は、電子レンジのチン! という音で消し去った。男は暖かいコンビニ弁当を熱そうに手に取って、ベッドと小さなローテーブルで半分が支配される部屋に戻った。

 おいしいだとか不味いだとかの味覚を感じることなく、男は義務的に弁当を食べた。途中、喉が渇いたが、冷蔵庫まで水を取りに行くことが億劫であったので、我慢して弁当を食べ続けた。

 弁当を食べ終え、洗わなくても出せるはずのプラスチックのトレイを律儀に男は水で注いだ。そして様々なごみで満ちた袋の中に、無理やりトレイをねじ込んだ。

 腹の膨れた男は、油とソースの匂いが感じられる息を吐いた。夏においては不快感を覚える口内環境に、男も例外なく不快感を覚えた。けれども男は、わざわざ口を洗うのも面倒なので、再び冷気に満ちた部屋に戻り、プラスチックの収納からボクサーパンツと白いシャツ、バスタオルを取り出し、給湯器の電源を入れ、ユニットバスに向かった。

 作業服を脱いで、いつも通り洗濯機に掛け、下着を全て洗濯機に放り込んで全裸になった男はふらつきながら、歯ブラシと、ギラリと光る剃刀が雑多におかれた洗面台の前に立った。男は白髪交じりで伸び放題の黒髪と、自身のくまで黒くなった目と、少しずつ出始めてきた腹に虚無感を感じた。同時に明日の作業工程に関する無理を覚えた。

 秋季に完成させるように言われている男が携わっているビル建設は、まだ六割しか出来上がっていなかった。男はこれを無理難題だと分かっていた。

 だが、男は一社員であり、何の権利も持たない労働者であった。セメントと、鉄骨と、ダクトと、一輪車と、砂と、作業車と、産業廃棄物、色々な建設器具が満ち満ちる空間の中で、働くことだけを許された労働者でしかなかった。男は自らの状況を運命だとして、受け入れていた。仕事、労働、納税、怒号、それだけが自分の存在意義であると男は考えている。

 伸びた髭を摩りながら、男は自分の心がぽっかりと空いてしまっていることに気付いた。しかし男が、今更この事実をどう思うことも出来なかった。だが男の体は、脳みそを介さず、ある行動を取っていた。

 仕事以外の事柄に興味をすっかり示さなくなった男の脳みそは、眠っていたのだ。だからこそ男の豆だらけの右手が、剃刀を握ることを許したのだ。


「アッ」


 鏡を見て、自分が喉元に剃刀をあてがっていることに男は気付くと生気のない短い声を漏らした。そして男は、そっと剃刀を洗面台に置いた。

 男は恐れた。今までは線路にしか魅了されなかった自分が、いつの間にか日用品にも誘惑にされてしまっていることが酷く恐ろしく感じた。

 一刻も早く男は、この事柄から逃れたかった。男は動かない足を動かして、浴槽に飛び込むように向かうと、シャワーの栓をひねり、まだお湯になっていない生ぬるい水を頭からかぶった。徐々に暖かくなってゆく水に、男は生気を感じた。

 石鹸で体を洗い、シャンプーで髪を洗い終えた男は、部屋干しのせいで臭うバスタオルで体を拭いた。水気を粗方片付けた男は、換気扇を点けると、パンツとシャツを着て、蒸し暑いユニットバスを出て、冷蔵庫に向かって、再び炭酸の抜けた炭酸水を一気に飲み干した。そして空のペットボトルを、男はペットボトルに満ちたごみ袋の中にねじこんだ。

 汗ばんだ男の体に、部屋の冷気は快感であった。そしてこの快感は、男がこの日、初めて感じる快感であった。

 ベッドに座って小さすぎる幸せを感じる男は、何とはなしに滅多に見ないテレビを点けた。


「アッ、今日、いや、昨日は選挙だったんだ」


 テレビ画面には、ニュースキャスターとコメンテーターとが並んで国政選挙結果の是非を話し合っている場面が映し出されていた。どうやら、また与党が圧勝したようだ。


「しまった。投票してなかった」


 このニュースで初めて男は、国政選挙があったことを知った。そして義務的に、選挙に行かなかったことに対する言葉を漏らした。


「まあ、いいや」


 義務的な言葉は、義務的な言葉でしかなかった。男は選挙に興味など無かったのだ。選挙権を得た時もその前も、認めてもらえなかった男からすれば、誰かに認めてもらうための選挙などどうでも良かったのだ。

 それ以上に、どの政党に投票したところで今が変わらないと考えていたためでもあった。男はつまらないテレビを消して、ベッドに横になった。少々の尿意を覚えたが、時刻は一時を回っていたため、我慢した。

 円形電灯のリモコンを取り、ベッドに横になると、男は電灯を消して、タオルケットを被った。変わらない生活に虚無感を抱きながら。

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労働者 鍋谷葵 @dondon8989

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