第3話 呼ぶ闇の向こう 後編
ガーデンテラスの間の、屋根のない場所に、日光は惜しげもなく注がれている。眩みそうな光を浴びながら、女性の同僚たちが輪になり、ランチを楽しんでいた。
燦々と降り注ぐ光の中へ、植物の屋根が作る影の下にいるゆかりも、行きたかった。
「ねえ、私も……」
ゆかりちゃーん
かすかな声を運ぶ風が、ガーデンテラスの梁から垂れている紐を揺らした。ゆかりのまつ毛の先スレスレを、紐はとおりすぎる。植物をくくりつけているのが、偶然切れたのだろうか。
揺れる紐を、なんとなく指に引っ掛けてみたくなった。人差し指を絡め、輪っかにする。それから、曲げた第一関節の
ゆかりちゃーん
血の気を失っていく指先と、青紫の血管の気持ち悪さに、陶酔した。
「明日も来ようね」
女子社員たちが解散している。
我に返ったゆかりが、紐から指を外した。女子社員はゆかりの横を通りすぎ、「お疲れ」と声をかけた。
「あ、うん……」
自分はなにをしていたのだろう。
まるで進んで、あの声の類に迎合するような真似をして。
「……普通じゃないよね……」
背後から聞こえた囁きに、焦って振り返った。
「こんな時間に……」
「変わった人」
彼女たちの背中は、どんどん遠ざかっていく。
みんながいる場所へ自分が行くのは、許されないのだろうか?
時計の針が、規則的に時を刻む。
気の休まるはずの自宅で、ゆかりは独り苛立っていた。夫を待っているが、帰ってこない。
あえてそっけなく送った「まだ?」というメッセージにも、既読はついていない。
あの人は自分への関心を失っている。
自分は昔から人を失望させてきた。だって自分は人とは違う。人が簡単にできることができなくて、人が簡単にわかることがわからない。
今までも、これからも、結局そうなんだ。
誰からも見向きもされない。みんなから悪者にされる。
一生そうなんだ。一生、一生。
椅子の上で膝を抱え、明け方まで嗚咽した。
規則正しく走る電車に、感情はない。
ゆかりはホームのベンチにグッタリと座り、義務的に直線を走る鉄の箱を眺めていた。
気怠すぎて動けない。気力が尽き、会社にも行けず、ここでぼんやり時間を潰していた。
電車が通れば、ガタゴト轟音が響く。
ゆかりちゃーん
線路の下からあの声が呼ぼうが呼ぶまいが、もはやどうでもいい。規則に従い停まっては過ぎていく電車を、ただ眺める。こっちにとどまっているために、なにも考えたくない。
が、次に停まった電車に、釘づけになった。窓の向こうの、夫と見知らぬ女の姿を見て。
情のない鉄の筒は、冷淡に走り去っていく。
ジリジリとした苦しさが、ゆかりの心を黒く爛れさせた。
トイレに駆け込んだ。幸い誰もいない。過呼吸のまま手洗いの前で膝をつき、
アアアアアアアアアっ!!!!!
衝動のまま叫びに叫んだ。
信じていたのに。愛してくれなくてもよかったのに。あなたにはただ、裏切ってほしくなかったのに。
持っていたメモも、泣きながらビリビリに引きちぎった。
こんなバカみたいなもの、なんで書いていたの? 自分の時間を無駄にして。
本当の自分を全部全部押し殺して、普通のフリして使い捨ての部品になって、残るのは、なんにもない皺皺の汚くて醜いゴミだ。
へたり込んで泣いた。泣いて泣いて泣いた。できることなら、今すぐ消えてなくなりたい。
トイレの個室から声がする。
ゆかりちゃーん
扉を蹴っ飛ばした。
「うるさいっ!!」
足に弾かれて跳ね飛んだドアの先には、誰もいない。
奇妙には思わなかった。いつものことだ。
洋式の便器を見下ろした。
底の水を吸い込む穴は、暗い。
ビリビリに破いたメモの欠片を便器に散らし、レバーを押した。
文字の書かれた紙の欠片が、水の渦巻きと一緒に、穴の暗闇へ消えていく。
し
普
親
厳
学 生 無
夢 文 年
諦
遅
社
安
章
活 金
会 世
悪 婚
人
に 通 す
格 生
先 視
貴
時
会
定
で
生
社
結
幸
最後の文字が、水の闇の底へ呑まれいく。
便器にもたれかかり、くぎづけになった。
消えていく。呑まれていく。流されていく。吸い込まれていく。自分の思想が、感情が、歴史が、存在が、闇の向こうへ。
闇になる。闇へ行く。闇へ溶ける。闇へ消える。
憧憬は抑えがたかった。
ゆかりちゃーん
やっぱり自分は、そっち側の人間なんだ。
都会の
ビルとビルの間に、濃くて暗い影が落ちている。
ゆかりちゃーん
今までで一番、闇からの声はハッキリしていた。
ゆかりはふらりと人混みから外れ、影のほうへ歩いた。
次に呼ばれたら、きっと抗えないと、悟っていたんだ。
向こうへ行きたい。
ゆかりの姿は、この世界のどこからも消え去った。
呼ぶ闇の向こう Meg @MegMiki34
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