第2話 呼ぶ闇の向こう 中編

 皿によそったビーフシチューの湯気が、勢いを失っていく。紙やら缶やらゴミやらの置き場と化した、テーブルの上で。

 向かいの彼の指定席は、最近、からの日が多い。

 ゆかりの相手はスマホしかいない。ポチポチ文字を打ち、メッセージを送ってみる。

  

『まだ? 記念日だからお祝いしようって約束したのに』

 

 返信は、しばらくしてから。

   

『残業なんだけど。普通わかるよね?』

 

 普通。普通普通通普普普通通。

 普通がわからない。でも、普通から外れた行動をとって、間違えたみたい。

 すぐにメッセージを送った。

 

『ごめん』

 

 壁の時計の針が、カチッ、カチッと、淡々と時を小刻みに分ける。

 メッセージは既読のまま、返事はない。

 膨張した不安が脳を発火させた。爛れた自分への失望が、体を鉛のようにさせた。

 冷たい左薬指の指輪を、じっとり汗をかいた右手で握りしめる。

 

「どうしよう。どうしよう」

 

 握るだけでは耐えられず、指輪を上下に動かす。皮膚が赤く擦れたが、裂けてしまいそうな痛みが気持ちよかった。

 ふと、電気をつけていない暗い台所から、

 

 ゆかりちゃーん

 

 耳を塞ぎ、背を向けた。

 こんな時に。

 

 ゆかりちゃーん

 

 何度呼ばれても無視する。反応しなければ、いずれ声は消えるんだ。

 不意にガシャンと食器の割れる音が響いた。

 さすがに驚き、台所をのぞきこきこむ。

 明かりのない調理場には、電子調理器や包丁、食器が並ぶだけで、皿もコップも割れていない。人もいなければ亡霊もいない。

 あの声がゆかりの気を引くために聴かせた、幻聴だったのだろうか。

 ただ、後で洗おうと水場に放置していた、大きめのボールは、いつもと様相が違った。静かに張りつめた水面の下に、黒い煙に似たモノが、モヤモヤと渦巻いている。

 

「なにこれ……」

 

 近づき、水中の奇妙な黒を観察した。

 汚れではなさそうだ。黒色の炭酸を、無限に溶かしているような。

 モヤモヤの中に、なぜか柄のない鋭利な小刀が入っていた。包丁でもない。食器でもない。買った覚えもない。

 異常なことばかりなのに、水に溶けた闇に、小刀の先の鋭利さに、見入ってしまう。

 水中からブクブクと、小さな泡が浮いた。

 

 ゆかりちゃーん

 

 そこにいるのか。捕まえてやろう。

 腕をまくり、水に手を浸した。

 黒い水の感覚が、肌に馴染む。骨に沁みるような冷たさも、慣れたら心地いい。

 小刀の先に、人差し指を押しつけてみた。チクリと痛み、傷口の血が黒の水に溶ける。黒に混じる赤を見つめていたら、きれいだなと思った。

 

 ゆかりちゃーん

 

 結局のところ、自分は憧れている。あの声がいるあっちの世界に。闇の向こうに。

 もっと押し込めば、腕は黒い水にズブズブと沈んだ。

 終わるんだ。

 絶望してるの? ううん。ホッとしてる。

 瞳を閉じて、つむじを浸し、頭も丸ごと入れようとした。


 

   
















   

    ブー ブー ブー ブー ブー

 












 バイブの音にハッと目を開けた。

 椅子の上で、膝を抱えて座っている。テーブルには冷めたビーフシチューと、振動を止めたスマホ。

 着信履歴の後に、簡素なメッセージが光った。


『外で食べてくる』

 

 曲げている膝に、くたびれて頭を乗せた。

 あんな気持ち、認めたくなかった。自分がまともだと思っていたかった。自分が異常な心を持った異常者だなんて、思いたくなかった。普通になるために、いろんなものを諦めて、がんばってきたのに。

 ビーフシチューは冷めきって、食べる気も起きない。

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