呼ぶ闇の向こう

Meg

第1話 呼ぶ闇の向こう 前編









        ゆかりちゃーん

 

 









 





 日が沈むと、暗いビル群が放つ、まだらな橙の光が、一層目立って見えた。

 明滅を、見知らぬカップルの集団がガーデンテラスから眺め、ありきたりなロマンスに浸る。

 その一組であったはずのゆかりは、柵に寄りかかり、手帳に文字を書いていた。左薬指の指輪がなければ、待っているのは夫だという事実を、忘れてしまいそうだ。

 書くのは同じ言葉の羅列。

 私は幸せ。私は普通。だから大丈夫。

 

 ゆかりちゃーん 

 

 昔からどこからともなく聴こえる、風の音にも似た無機質な声にだって、動揺したりしない。

 

 ゆかりちゃーん

 

 精神異常だと、哀れみを込めて言われた。あるいは、虚言だとも糾弾された。

 元来、ゆかりの思考や感性は、人からかけ離れている部分が多かった。人の集団と、ゆかり自身の心の距離が、遠ざかりそうなときに限って、声ははっきり聴こえた。

 

 ゆかりちゃーん

 

 耳を押さえても、声は消えない。

 

「やめて……」


 ゆかりちゃーん


 しつこい声は、ゆかりの膝を勢いよく動かした。

 あの声は多分、ゆかりの未来も邪魔したいのだろう。今までどこでも異常者扱いされてきた。今日という今日こそ、正体を暴いてやる。

 声のほうへ足を踏み出そうとした。

 二の腕が、夫の大きな骨ばった手に掴まれる。

 

「ゆかり?」

 

 聞きなれた夫の低い声には、隠す気もなさそうな訝しみが滲んでいた。

 瞳をキョロキョロ動かし、周囲を観察するが、夫以外にいるのは、ゆかりに一切の興味を示していないカップルばかり。

   

「また声?」

「違う。もう聴こえないし」

 

 投げやりに放った弁明は、ゆかりを弁護してくれそうにもない。斜めに上がった夫の唇が物語っている。

 せっかく普通であることを心がけ、手に入れた人なのに。

 

 

 

 受付を済ませ、飾り気のない四角い診察に入ると、背もたれのない丸椅子に座るよう促された。

 白衣の医者に、頭や耳や胸を丹念に調べられる。

 聴診器を耳から外すと、医者は何の動揺も慈しみも見せず、カタカタと軽いタッチでパソコンを叩いた。

 

「異常ありません」

 

 医者というのは、大事な時に役に立たない。

 わかってはいるが、食い下がりたかった。

 

「ちゃんと調べてください」

 

 医者は眉を下げ、問題児に説教をする先生のような口調で諭してきた。

 

「精神的なものですよ。昔から聴こえるんでしょ」

 

 尻の下の丸椅子を、左右に小さく揺らしながら、太ももの上に置いた手を握りしめた。

 何百回も浴びてきた。同情を装った見下しの視線。露骨な嘲笑。あの人は異常だと、常日頃から悪者扱いされた。


「厳しかったご両親や、過去の学校でのご経験がね。いつもの薬出しときます。心の傷はゆっくり治しましょう」

 

 無神経に掘り起こされた過去に、胸の内が引っ掻き回され、爛れる。突き立てた爪が、手のひらに血と痛みを滲ませた。

 納得は、当然いかない。


「私は幸せなんです。普通の人間になったんです。傷なんかありません」

 

 医者は無関心にキーボードを叩くだけだった。

 

 

 

 自分の人生は後悔ばかり。思うことばかり。

 そのせいか、時々、頭上に文字の土砂降りが起こる。どこかに吐き出さなければ、口を突いて出てきて、周囲を困惑させかねない。

 だから仕事中は、単語が降ってきたら、こっそり手帳に書き殴った。

 今も廊下を歩きながら書いていた。


普通 親 厳格 学校 ホロコースト 先生 無視 夢 年齢 諦め 文章貴人 時すでに遅し 社会 安定 生活 金 会社 世間 嫌悪 幸

 

 結婚、と書きかけたところで、ヒュウゥッと風の唸りが耳に入った。

 赤い花の挿された花瓶が、廊下の突き当たりに添えられている。壁一面はガラス窓。透明な壁面の向こうに、ビルが乱立しているのが見えた。

 下方は暗く、底なしの谷のよう。このオフィスの階層は結構高い。

 唸る低い風音の流れに、特定の言語が混じっていた。

 

 ゆかりちゃーん


 ……うるさい。

 

 ゆかりちゃーん

 

 うるさいうるさいうるさい。

 

「私は普通で幸せなの。いくら呼ばれてもそっちにはいかない」

 

 ゆかりちゃーん

 ゆかりちゃーん

 ゆかりちゃーん

 ゆか

 

 鋭く澄んだ破裂音によって、声は消えた。

 周囲の社員が何事かとやってくる。

 気づいたら、ゆかりは床に膝をついていた。指がチクチクと痛い。手には陶器の破片が突き刺さり、ガラスの壁には水が飛び散っている。

 花瓶を壁に叩きつけたようだ。覚えてはいないけれど。

 見下ろしてくる社員の目の冷たさが、記憶の幻と被る。異常者を見る目。恥をかかせる家庭の目。四角四面の教室の目。

 みぞおちの奥がギュッと縮む。喉から謝罪を絞り出した。

   

「すみません。ごめんなさい。弁償します」

 

 普通の人間はこう言うだろう。その前に、普通の人間はこんなことしない。

 社員の迷惑そうな視線が、いたたまれなかった。

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