第3話
貴方が幼いころの記憶。何歳ぐらいまで覚えているかしら?
幼稚園ぐらい? それともママのおっぱいを覚えている?
私が覚えている最古の記憶は、スケッチブックの中から見たアトリエの風景。
ワックスにも似たテレピン油の匂いこそが、私にとって ふるさとの香り。
あの頃、お父様はまだ美大生で、エンピツ下書きの私に何度も話しかけてきた。
「いつかお前を街で一番目立つ所に飾ってやるからな」
「昔、フランス旅行に出かけたとき毎日ルーブルに通い詰めてお前を描き上げたんだ。リサ、お前はモナリザにだって負けやしない。俺はそう信じている」
「なんたって、俺の最高
若かりし日のお父様は過剰なまでの情熱に満ちて、いつか芸術家として大成できると確信していた。ダヴィンチと同じような
その自信が揺らぎ始めたのは、就職して広告用の看板を描くようになってから。
とうとう街中に飾られるお父様の絵。
大勢の人がそれを眺めるのに、なぜか足を止める人は誰もいない。
作者の名前を気にかける人なんて皆無。
「いいや、あれは出来がイマイチだったからそうなっただけさ」
「リサ、お前なら違うだろう?」
「モチロンです。お父様」
どうなんだろう?
本当の、本当はね、そんなこと私に分かりっこない。昔の私は、お父様に気に入られたい一心で、無邪気に頑張りますと言い続けていた。
でもポーカーフェイスの内側では。
ひょっとしたら、ひょっとすると、他の作品と同様に誰の興味もひけないのではないかと、そんな不安に押し潰されそうだったの。
大丈夫、大丈夫なはずなんだけどね。私って最高傑作なんだもの。
そして、とうとう私の出番がやってくる。
出版社から受けた依頼のビルは、秋葉原の駅前からも見える一等地。
自信作のお
お父様は厳しい納期に間に合わせようと、寝る間さえ惜しんで私を描き続けた。
鬼気迫る表情で作品に向き合い、魂を削るように絵筆をスチール板へ叩きつけた。
「必ずや、俺達の名前を歴史に刻んでやる。リサ」
「お前は皆から永遠に愛される存在となるんだ。どうだ、嬉しいだろう?」
「とても嬉しいです、お父様」
本音を言えば、お父様ひとりの愛だけで私は事足りていたのだけど。
それを口にすればお父様に失望されてしまいそうで。
どうしても言えなかった。
看板が完成に近づくと色あせたスケッチブックは閉じられたままになり、私の意識もまた暗闇と
初めは
やったね、お父様の期待に私は応えられた。
私には皆の目を奪う芸術性があるんだわ。
初めはそう思ったの。
でも、すぐに私という看板は街の風景へ溶け込んでいったの。
在るのが当たり前にあれば、誰も足なんて止めない。
そして何よりも、お父様と会えなくなったのが悲しかった。
他にも仕事の締め切りがあるのだから当たり前だけど。
まるで見捨てられたとしか思えなかった。
またお父様とお話がしたい。
ここでは、誰も私の声に耳を傾けてくれない。
誰も私の価値を理解してくれない。
虚しい、寂しい、全てが
ここでは、話し相手なんてスズメさんぐらいしかいない。
なんて
何も進まない、停滞している。看板なんだから当たり前なんだけど。
……あれ? ビルの前に立っているのは、もしやお父様?
幻じゃない、確かに居る!
でも、隣の女性はいったい誰なのだろう?
私の知らない人だ。
それに、どんなに叫んでも応えてくれないのはなぜ?
まるで私の声が聞こえなくなったみたい。
ああ、行ってしまった。二人して、
空っぽになった私の心に、
それはきっと、お父様が大好きだったブラックコーヒーよりも苦くて。
そうか、そうだったんだ。
まるで見捨てられたみたい……じゃなかった。
本当に見捨てられたんだ。
看板である私にとって時の流れなど理解できなかった。
二十四時間が一日で、それを三十回ほど繰り返すと一ヶ月。
ひと月を十二回で一年。
それが時の
なるほど、知識としては知っていた。
でも、人間にとって、その流れる時が何を意味するのかは知らなかったんだ。
嘘みたいに残酷な真理!
お願い嘘だと言って!
私がここに設置されて何年が過ぎたのだろう。
数えることすらしなかった。
私はいったい何の為、ここに飾られているのだろう?
モナリサを超えるって、いったい全体どうやって?
私はその人と会った事すらないのに。
去っていったお父様を思いながら泣いていると、何やら私の足元でタバコの煙をふかし始めた奴がいる。迷惑だからやめてよ、臭いし。絵にヤニがつくでしょうが、ヤニが。
こっちは悲劇のヒロインに
でも、そいつはお構いなし。
彼は時折ここへと足を運び、手すりから景色を眺めては去っていく。
私にはいつも背を向けたまま。
けれど、その日は……こちらを見上げてこう言ったの。
「空梅雨だってのに。お前さん、なぜか
「なんだか泣いているみたいだな」
「止しなよ。アンタみたいなベッピンさんは笑っている方が可愛いぜ」
「おだまり。看板だって泣きたい時ぐらいあるのよ」
つい反論が口を出てしまった。
でも、そのせいで小さな奇跡が動き出したの。
男性のキツネにつままれたような面持ちを今でもよく覚えている。
「コイツは……驚いたな。昨夜の酒が残っているのかな?」
「違いまーす。貴方は正気。狂っているのはきっと、こんな私を放置している社会の方だから」
「
もっと距離を詰めよう。これは機会だ。そう思ったわ。
「ボボボン・ボンジュール。良かったらお友達になってくれない? 会社の屋上には鳥さんと貴方ぐらいしか来ないの」
「ふーむ。まぁ、これも
「どうして?」
「俺も鳥だからさ」
「あらそう、どう見ても人間じゃない」
「燕雀、それが俺の名前だ。燕とスズメ、それを重ねてエンジャクと読む」
「ツバメさんね。彼らは毎年、私の頭に巣を作ってやかましいの。糞で看板を汚すし。貴方は違うわよね?」
「トイレの
思い返すと、あまり素敵な出会いではなかったようね?
いいわ、過去はもう水に流しましょう。
それよりも、未来が気になるわ。
モナリザ先輩に打ちのめされ完全敗北を
教えて、お父様。
かつては、私のお父様だった人。
今はきっと、どこかの他人。たぶんね。
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