第2話



 やってきました満月の晩。

 優しい月の光が大気に満ちあふれて、体中に力がみなぎってくる。

 今ならばどんな魔法や奇跡も容易く実現しそうな気すらして。

 私はそっと住み慣れた看板から脱出を試みる。


 その様子は小魚が卵から抜け出すように滑らかなもので。

 スルリ、ストンと屋上に降り立った私。


 鼻をつく都会の香りすらもどこかさわやかで、生身だと肌にあたる乾いた夜風もとっても新鮮。遠くの街頭から流れる気だるいフォークソングも、今の私にとっては歓迎のハワイアンソングみたいなものね。


 リボンがついたツバの広い帽子と、白いサマードレス。


 生まれた時から着ている私の一張羅いっちょうらだけど、夜の秋葉原ではサイケデリックなネオンが映えて幻想的な蝶のように見えることでしょう。断じて蛾ではなくってよ!


 そんな私の立ち姿に背後から拍手をくれる観客が一名。



「おお……思わず見とれてしまったよ」

ボンスォワこんばんは、燕雀さん。月が真円を描く夜、奇跡の目撃者となった気分はどうかしら? 感想を述べよ」

「うーん、リサのいた部分が人型の白塗りになっているんだが、会社の看板がこのままで良いのか?」

「もう! 良いのよ、誰も留守に気付きやしないわ。彼等にとって私はただの看板なんだから。そういうモンだと思うでしょ」



 たった一晩だけのことなんだもの。

 職場放棄も大目に見てもらいたいわね。

 それよりも、偉大な先達に挨拶あいさつする方がきっと大切よ。

 この出会いは私の人生に劇的な影響を及ぼすような気がするの。

 さぁ、いそいそと参りましょう。


 社旗しゃきのはためく車に乗って、やってきました東京国立博物館。

 上野公園の東部にあるこの施設は、一八七二年開館の歴史あるものなんですって。

 建物も秋葉原のビルヂングに比べて、明治の情緒じょうちょを伝えるおもむきが感じられるわね。


 あらあら夜中だというのに、駐車場の入り口が開いているじゃないの。

 そこに車を停めると、私達はしまっている表玄関を後目しりめに裏口へと回ったわけ。


 職員用の裏口では制服を着込んだ警備員が待っていたのだけど。

 なんだかひどく落ち着かない様子で、何度もハンカチを取り出しては額を拭っていたわ。燕雀さん、大丈夫? これって、もしかすると、すごーく無茶なことしてない?

 警備員の若者は私達の姿を見るなり、燕雀さんにまくし立てたの。



「先輩、やっぱりマズイですって。こんなのバレたら、俺がクビになるだけじゃすみませんよ。どれほど大ごとか知ってます? 絵の搬入はんにゅう時も国賓こくひんなみの警護がついて。展覧会の開会式には、あの、田中角栄首相がテープカットしたんですよ」

「上野公園の外まで人があふれていたらしいな。ニュースで見たよ」

「公開初日には名画にスプレーを吹きかけようとする人まで出たし、今は本当にマズイ。何か起きやしないかと皆がピリピリしているんですよ。モナリザに何かあったら賠償金はどれだけの額になるのやら、ブルル、想像もつきません」

「まぁ、そう心配するなよ。この御方は事情があって どうしても昼間は来られないんだよ。チラッと見たらすぐ帰るからさ。ほんの五分ですむよ。単なる取材みたいなものさ」

「その女性は……どこかのお偉いさんですか?」

「まぁね。ウチの会社だと、社長よりも更に上……かな?」

「えぇ!?」



 主に高さの問題でね。リサは屋上ですから? 社長室より更に上なのよ。

 私達の顔を交互に見比べてから、警備員さんは溜息を零したわ。ポォヴァかわいそう



「わかりました。他ならぬ先輩の頼みですから、他言は無用で頼みますよ。あと十五分で見回りが来ますから、お早く」

「すまんな、また飲みに行こう。大学時代の思い出を語り合おうぜ」

「全部、先輩のおごりですからね」



 こうして入れた月下の博物館。昼間は特別展示会場に飾ってある名画も、夜は防犯のため倉庫にしまわれているという。


 たった一枚の絵を見るだけの「モナリザ展」

 その非効率的なもよおしに、これまで前例がないほどの人が集まっているんだって。


 この扉の向こうに、あの、憧れの大先輩が……?

 どうしよう、この期に及んで胸がドキドキしてきちゃった。



「悪いが、待っていられん」



 震える私に変わって、燕雀さんが勝手に扉を開けちゃうんだから、もう!


 そして、目が合ったの。扉の向こうにおわします、この世で最も有名な美女と。

 スポットライトに浮かび上がるのは、開かれた収納棚とそこにかけられた名画。



「あ、あの、あ、あ、あ、アンシャンテはじめまして



 返事はない。当たり前。そこにあるのは大昔に描かれた油絵なのだから。

 あ、アレ? 私ったら、いったい何をしに此処ここへ?

 どっちが美人か競う? ただの……が、唯一無二のオリジナルに対して?

 喉がカラカラで声が出ない。格の違いで圧倒される。

 こ、これが伝説?


 消え去りそうな私を救ってくれたのは、燕雀さんの何気ない一言。



「駄目かぁ。もしかするとリサならば、モナリザと対話が成立するんじゃないかと……少しだけ そう期待していたんだが」

「な、なによそれー」

「いや、純粋に学術的な興味だよ。もしもモナリザから創作秘話なんて聞けたら、スゴイじゃないか。実際の所、絵のモデルは誰なのか、レオナルド・ダヴィンチはどんな人だったのか、みんな知りたいだろ?」

「ええ! それは特ダネになるわね! やけに親切だと思ったら、ただ仕事に利用したかったのね!」

「すまんね、これだけのリスクを受け入れるのには、私情じゃ足りない。もっと崇高すうこうな理由がいるのさ」



 腹が立ったけど、そのせいでむしろ開き直れたわ。

 なによ、あんな小さい絵なんて。大したことないじゃない。

 サイズはせいぜい縦が七十七センチで横五十六センチといった所かしら。


 私の看板の方が、ずうっーーとずっと、大きいんだから!

 秋葉原にカラーテレビを買いに来る人たちは、誰もが私の顔を拝むのよ。

 そりゃあ、ルーブル美術館の客よりはちょっぴり数が少ないかもしれないけど。


 中世ヨーロッパ風のドレスを着た女性が、ポースをとって、こちらへ微笑みかけている。ただそれだけの絵。それだけなのに。

 でも、そんな絵が決して解けない永遠のミステリーを内包しているなんて。


 モナリザと見つめ合う私。そこへ燕雀さんが茶々を入れてくる。



「……で、どうだい? 伝説との対面は? 感想を述べよ」

「もう、意地悪! でも、そうね……彼女はお世辞ぬきに化け物」

「うん?」

「まるでこちらをあざける魔女のようにも見えるし、全てを包み込む慈悲にあふれた聖女の微笑にも見える。凄いのは分かる。でも、何が凄いのか判らないの。見れば見るほど、彼女が判らなくなる。彼女は迷宮そのもの」

「確かにな。光なのか、闇なのか、善人なのか、悪党なのか。俺達には考える手がかりすらない。まったく彼女の本心が見えない。それでも不思議とかれてしまう。まさにアレだ。男にとっての女性そのものだ」

「彼女は深い、どこまでも」



 そして、は浅くて薄っぺらいんだ。

 それは、どこまでも残酷で、深淵なる鏡映し。

 完敗だ。稀に見る完璧な敗北。

 この完敗に乾杯なんちゃって。


 おぉ、セラビィ!(人生なんてこんなもの)


 私は失笑すると、燕雀さんを残してきびすを返す。

 勝敗なんて最初から分かり切っていたのに、なぜ?

 なぜ、私は此処に来たかったのだろう?



「おい? もういいのか?」

「充分すぎるから。これ以上それを見つめていると、こっちのアイデンティティが崩壊しそう」



 燕雀さんの問いかけを受け流し、私ときたら不機嫌なのを隠そうともせず部屋を出る。帰り道の車内で何を話したのかさえロクに覚えていない。

 ただ、こんな毒をポロリと吐いたのは覚えている。



「もう、アレの話はしないで。これ以上、打ちのめされたら……私の生みの親さえも憎みだしてしまうわ。滑稽こっけいな、看板風情ふぜいが作者を憎むなんてね。セセセセラビィ」



 あー、もう! 完敗に乾杯!



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