最終話「おれの恋」
俺は深夜に、布団の中でもぞもぞとラジオの電源を入れた。チューニングはいつも同じ局に合わせてある。
いくつかのコマーシャルのあと、軽快な音楽が流れ始める。俺は全ての身動きを止める。布団の擦れる音は、ノイズでしかない。
それから、とても澄んだ声で番組のタイトルコール。自然と顔がほころぶのは、毎週のこと。誰にも見られない、俺だけの至福の時間。
この声を聞くために、一週間を乗り切った。
学校に行けば、いじめに遭うだけだ。親にも言えない。だけど、電波の向こうの彼女にだけは打ち明けることができる。
本当に学校へ行くのが苦痛で、悪いことを考えたことがあった。朝、家を出た俺は、学校へは向かわずにひたすら歩いた。五条大橋から国道を歩き、目的地も定めずに進み続けた。琵琶湖へ着いて、ぼんやりしながら「死にたい」と呟いていた。
俺が登校しなかったことはすぐに親の耳に入った。両親は仕事を早退して、俺を探しまわったらしい。
結局、深夜になってからオヤジの車に乗せられて家に帰ることになった。
その時に流れていたラジオのパーソナリティの声を聞いて、なぜだか安心したのだ。
それ以来、毎週末にはこうして彼女の声を聞いている。
俺が学校に行かずに国道を歩いて連れ戻された話は、すぐにクラスに広まった。そのことがいじめっ子連中にとっていい餌になってしまった。登校途中に「こっちは琵琶湖ちゃうで」と揶揄される。机に死ねと落書きをされ、物を隠される。女子の体育着がなぜか俺のカバンに詰め込まれていて、被害者の女子が泣いてしまった。その子も不登校になった。
担任教師は、もちろん気が付いている。気が付いていながら、見て見ぬふりをしているのだ。
もしも、俺が担任に告げ口をすれば、いじめが悪化することは目に見えている。
それでも、一度だけ勇気を振り絞って相談したことがあった。
そして、相談しなければ良かったと思った。大人になりたくないと思った。いじめられていると打ち明けたところ「うまくコミュニケーションをとれば、大丈夫だ」という旨の無責任な返答を得ただけだった。
親には相談できなかった。なぜか親には学校で楽しく過ごしているフリをしていた。親しくもないクラスメイトの名前を出して、学校でのエピソードを話すこともあった。もちろん、作り話。もしも、少しでも親に相談できていれば、少しは打開できたのだろうか。今となってはわからない。
そんな俺にとって、唯一、本音を出せる場所が、彼女の番組のお便りコーナーだった。
「京都府のラジオネーム元田中さん。こんばんわ」
自分のラジオネームを彼女の声が優しく読み上げる。それだけで胸がきゅんと締め付けられるようだった。彼女が僕の名を呼ぶ声が脳内で何度も繰り返される。それだけで生きていける気がした。
「元田中さんからは、相談のお便りが来ています。僕はクラスメイトとうまく接することができません。どうすればいいですか」
俺が送ったコメントが読み上げられ、うーん、と彼女が唸る。声だけしか聞こえないのに、親身になって考えてくれている姿が見えるようだった。
「クラスメイトは、たまたま近所に生まれた同い年の人たちが同じ教室に集められているだけです。別に仲良くなれないならそれでいいんじゃないかな。これから君は、もっと広い世界へ飛び出していきます。大人の世界です。広い世界にはいろんな人がいます。クラスメイトみたいにたまたま同じ空間にいる人なんかじゃなくて、君と同じ考えを持ったり、同じものを好きだと思ったり、そして君を大切だと思ったり。そういう人と出会えた時、君はその人を大切にすればいいよ。それじゃあ、元田中さんへ贈る曲はザ・ハイロウズで、日曜日よりの使者、どうぞ」
俺は枕を顔に押し当てて、嗚咽を殺して泣いた。はやくこの街から出て行きたい。今すぐ、出かけてしまいたい。出て行くまでのこころの支えは彼女しかいなかった。
何度も投稿して、それなりの確率で読まれるようになると、彼女は俺を覚えてくれるようになった。
彼女の声で読まれるラジオネーム、俺へ向けたコメント。公共電波の上で、俺たち二人だけのような時間だった。
こんな弱っちくて、彼女の声を支えにするような情けない形だけれど、俺は間違いなく彼女に恋をした。
容姿がわからなくたって、年齢がわからなくたって俺は彼女が好きだ。
わかっているのは「神園リコ」という名前だけ。
彼女のことを想い、彼女から言葉を投げかけてもらえるだけで、苦しい高校生活も耐えられた。
それも、ようやく終わる。ついに。
俺は春から、都内の大学に通う。知名度のある名門大学ではない。だけれど、この地から離れられることが何よりもの救いだった。
そして、何よりも、あのラジオ番組を放送しているラジオ局が東京にある。
いつか、どこかでばったり出会えればいいなと胸をときめかせて上京した。
◇
「それでは次のお便り。ラジオネーム恋するうさぎちゃんから」
俺は卓上に置かれた端末から気になるお便りを選び、画面に表示する。
「わたしはクラスメイトと馴染めません。何となく、仲間外れにされている気がします」
俺は彼女の気持ちに寄り添うようにマイクへ語りかけた。
「クラスメイトはたまたま同じ空間に集められた、近所に住んでる同い年ってだけの人たちです……」
マイクを挟んで目の前に座るリコは、俺に向かって優しく微笑む。
リコに俺のことをに知ってもらいたい一心で大学在学中にできることをやり尽くした。お陰で今では、この業界に入って、彼女の番組のサブパーソナリティをやっている。
そして、来春には結婚をする。一回り年上の、姉さん女房。
俺は、俺を大切にしてくれる人を、大切にして生きていきます。
恋に落ちたら もり ひろ @mori_hero
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