第二話「わたしの恋」

 ほらね、とわたしは空を眺める。

 昼間は容赦ない日差しがわたしたちを焦がした。緑の山脈の上には柔らかそうな入道が積み上がり、真っ青な空に浮かぶ。

 夏が、夏らしさを遺憾なく発揮していた。

 しかし、入道は夕方になってから山脈を乗り越え、いつの間にか日差しを完全に遮ってしまった。日が長い時期だというのに、あっという間に夜が訪れたような闇を運んで来ていた。

 入道がもたらしたのは、闇だけではなかった。

 穏やかな昼間とはうって変わって、強い風と、叩きつけるような雨。

 絵にかいたような夕立。

 改札から流れ出てくる人々も、駅構内から踏み出すのを躊躇う様子が見て取れた。折り畳み傘を忍ばせている人は稀で、誰もが立ち往生を余儀なくされている。人によっては家族に迎えの連絡をいれたり、意を決して走って行ったり。

 そんな人々の中からきみの見慣れた顔を探すけれど、まだ見当たらない。

 また一つ、列車が到着した。どっと流れてきた人が、改札を抜けたところで滞る。やはり、傘を持たずに家を出てしまった人々の渋滞が現れる。

 あの人たち同様、きみも傘を持っていない。

 昨夜の天気予報で、何度も夕立への注意喚起を行っていたのに、きみはテレビをつけたままリビングで寝てしまっていた。静かな部屋で、お天気キャスターの声と、エアコンの唸りだけが響いていた。そのエアコンを消したのは、誰だと思う? セットし忘れた目覚まし時計をセットしたのは、誰かしら?

 昨夜のきみの寝顔を思い出す。きみはいつだって穏やかな寝顔をして寝ていて、時々、幸せそうに微笑む。仕事で何かいいことがあったのかしらと思いながら眺める時間がわたしにとって至福なのだ。

 今朝の寝起きも思い出された。寝癖を雑に直して、慌てて出て行くきみは、まるで寝坊した子供のよう。そんな姿に、わたしの母性は激しく刺激される。

 バタバタと慌ただしく仕事へ向かったきみは、傘を忘れてしまった。

 そういうわけで、わたしは右手に傘を差して、左にきみの傘を携えて、こうしてきみの帰りを待っている。もうすでに四本の列車を見送ったにもかかわらず、きみの顔が現れない。

 ヒョロヒョロと細長いきみなら、どれだけ混雑していてもすぐに見つけられる。工事の影響で天井が低くなった階段を降りてくる窮屈そうなきみの姿なら、改札越しでもすぐにわかる。

 それが今日はなかなか現れない。また一つ、列車が到着したのに、そこにもいない。

 今日は大事な日なのに、どこで何をしているのかしら。

 昨年も一昨年もその前も、この大事な日に一緒に過ごせなかった。一年に一度のきみの大切な日を一人で過ごすことになってしまっていたことを、ずっと残念に思っていた。

 わたしがきみを知ってから、もう五年が過ぎた。今年こそは、きみの大切な日を一緒に過ごしたい。

 ここできみを待って、どれくらいの時間が過ぎたのだろか。

 水たまりにできる波紋が、小さく、少なくなってきた。一度暗くなった空が、にわかに明るくなった。空一面を覆う雲は、薄くなって真っ赤に染まる。

 一度過ぎ去った夕方が戻ってきたようだ。

 傘を持たない人が躊躇わずに駆けていく姿も増えてきた。これくらいの雨なら、きっときみも小走りで家に帰るに違いない。かばんの中の書類が濡れてしまっては困るから、スーツのジャケットで覆うようにかばんを抱えて、ちょっと前かがみになって、運動が苦手そうに走るきみの姿が簡単に想像できる。

 小雨になったとは言っても、傘を差さずに走れば、眼鏡が濡れて見えなくなっちゃうね。

 きみはいつも、お気に入りのクロマニヨンズのCDを流しながらリビングのソファで眼鏡をかけたまま寝てしまう。どうしても起きていられないから、CDの最後まで聞いている姿を見たことがないなあ。

 それに、眼鏡の鼻あてが食い込んでいて痛そうだし、フレームが歪んでしまわないか心配になる。ちなみに、わたしは眼鏡をかけたまま寝て、眼鏡が割れてしまったことがあるの。

 昨夜、きみがかけたままだった眼鏡をはずしてあげようとしたけれど、うまくはずせなかった。強引にやれば起きてしまいそうで、結局、そっとしておくことにしたのだ。

 きみには眼鏡姿がとても似合っている。コンタクトにしようとすれば、わたしは強行手段に及んででも阻止するつもりです。

 せっかくきみの分の傘も持ってきたけれど、もうすぐ雨は止みそうだ。西の空には、明々と輝く夕日。夏だ夏だと思っていたけれど、もう秋は近いのかもしれない。

 雨が止んだとしても、帰らずにきみの到着を待って声をかけようと思い直したところで、次の列車が駅に滑り込んだ。

 雨が止んでホッとする人々の中に、ひとつ飛び出した顔が見える。小型犬のようなきみの顔だ。でも、なぜか今日は眼鏡をかけていない。

 いつもなら、近視すぎて裸眼では睨んでいるように見える目つきも、今日は柔らかで穏やかだ。

 そして、その隣には。

 見覚えのあるハムスターのような顔。小柄な女性。華奢だけど、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込む整ったスタイル。楽しそうな顔で、きみの顔を見上げる。身長差はおよそ三十センチ。

 きみの部署の、一つ上の先輩、、鮎川あかり。知っている、わたし、その女のこと知っている。

 鮎川あかりが折りたたみ傘を取り出す。アラサー世代に人気のキャラクターがワンポイントであしらわれた小さな折りたたみ傘。

 鮎川あかりがそれを広げると、きみが受け取って二人で並んで歩く。傘は極端に鮎川あかりに寄っていて、きみの背中半分が濡れていく。

 わたし、知っているよ。本当は、きみが職場に予備の傘を置いていること。

 それを持たずに、職場の先輩である鮎川あかりと二人並んで一つの傘に収まる。

 わたしは、きみの顔が見えるうちにスマートフォンを取り出して、きみの顔がよく写るように写真を撮った。何度も連射をして、きみのどんな表情も逃さないように。

 今年も、きみの大切な日を一緒に過ごすことができなかった。

 来年こそは、きみと一緒に過ごしたい。それで、きみに誕生日おめでとうと言いたい。

 その前に、わたしは、きみに知ってもらわないといけない。

 わたしがどれほどきみのことを想っているかということを。

 どれだけわたしが、きみのことを見続けて、写真に収めてきたかということを。

 きみの家の合鍵も持っているし、きみの実家だって知っているということを。


 今は、ただのコンビニの店員と、お客さんという関係でしかないけれど、いつかきっと、わたしの想いを伝えたい。いつか、わたしのことに気付いて欲しい。わたしのことを、いつものコンビニ店員じゃなくて、一人の女として見て欲しい。

 きみの初恋の相手にはなれなくていい。初恋の想い出が詰まったクロマニヨンズのCDだって、捨てて欲しいと何度も思ったけれど、そのままでいい。どうせわたしは、きみの初めての相手にはなれないから。

 だけれど、きみの最後の相手にしてほしいの。

 そう思いながら、今日もきみの後姿を写真に収めて帰路についた。

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