心腹の友
香月 優希
心腹の友
夏が訪れて、明るい日差しが降り注ぐ坂道を、さっぱりと短く刈った黒髪を揺らし、一人の青年が駆け抜けて行く。彼──
──受かった!
嬉しさのあまり走りながら拳を掲げ、大きく飛び跳ねて段差を越える。二度目の挑戦をした剣士昇格試験、上から二番目の準師範の位を勝ち取ったのだ。
今、彼はその報せを手に、恋人の元へ向かっている。この手にある証書を見たら、きっと彼女も喜んでくれるだろう。そして、待たせて悪かったと、ちゃんと頭を下げよう。ここ数ヶ月、剣の鍛錬に明け暮れて、何度も約束を見送ってしまったことを、しっかり謝らなければ。
「ルーシャ!」
いつもの大樹の下で、見慣れた、けれども少し久し振りな愛しい姿を見つけ、驃は大きな声で恋人の名を呼んだ。ふわふわと波打つ茜色の髪が揺れ、
彼女の元に辿り着き、誇らしげに手にした証書を見せた。
「受かったぞ! ついに──」
その途端──
パシン!と、左頬に熱い衝撃を受け、その言葉は遮られた。
「……え?」
何が起こったのか分からず、彼は一瞬固まる。
──殴られた?
目の前ではルーシャが、潤んだ瞳で自分を見上げて、唇を震わしている。
「……ルーシャ?」
「もう──無理」
彼女が絞り出すように言った。
「これ以上、私には無理。ついて行けない」
驃がやっと意味を理解し、戸惑いの中で伸ばしたその手を、彼女が振り払う。
「今日だって遅刻して──もう、剣を恋人にしたらいいじゃない」
言われた言葉に衝撃を受けて、ただ彼女を見つめ返すだけの彼に、
「さようなら!」
きっぱりとした口調で告げると、ルーシャは彼をひと睨みして、あっという間に走り去ってしまった。
──そんな。
時間に遅れたのは、師匠とこれからのことを少し話していたせいだ。それに、そんなに大幅に過ぎたわけでもないのに。
しかしそんな説明が、彼女に届くはずもない。驃は呆然としたまま左頬を押さえ、しばらくその場に立ち尽くしていた。最高の日になると信じて疑わなかった今日は、こうして一気に、最悪の日に転落した。
「──で?」
雑多な酒場の奥で、長い銀髪を左肩側で結えた端正な顔立ちの男──イルギネスが、自分のグラスに酒を注ぎながら、視線を上げる。
「なんで俺が、お前の祝い酒に付き合うことになってるんだ?」
聞きながら、驃のグラスにも酒を注いでやった。
「ルーシャのとこに行ったんじゃなかったのか? 三ヶ月ぶりだったんだろう?」
一人で飲んでいたところに突然現れて、「今日はお前と飲む」と目の前の席に座った黒髪の親友を、海のような青い瞳で見つめ、イルギネスは続けて尋ねた。
「──フラれた」
驃はため息と共に、その一言を吐き出した。
「え?」
「張り手くらって、終わりだよ」左の頬を撫でる。そこはまだ、じんじんと鈍い痛みを発していた。
「剣では当てられ知らずなのに、女の張り手が避けられなかったのか」
やや間の抜けた驚きが、イルギネスの整った顔に浮かぶ。
「うむ……」
言いにくそうに、驃が口を開いた。
「お前の言う通り、ちょっと放ったらかしにしすぎた……と、思う」
バツが悪くなって、最後は声がしぼんだ。
「──ったく。しょうがないな。前にも忠告してやったのに」と、イルギネス。
「最初言った時にあらためないから、こうなる」
「……ああ」
驃は、数ヶ月前にも彼女とこじれた時の、親友の助言を思い出す。しかし、試験のことで頭がいっぱいで、確かにあまり気に留めていなかった。
「ごもっともすぎて、何も言い返せないぜ」
沈黙が訪れた。ふいに、イルギネスがテーブルに肘を乗せ、やや身を乗り出す。
「──追いかけなかったのか」
驃はイルギネスの瞳を見返した。そして少しの間考えて、こう答えた。
「追いかけて何とかしたところで……同じことを繰り返さない自信がない」
剣を持てば右に出る者などいない自信家とは、別人のような言葉だ。言葉にしてしまってから、突然気持ちが震えて、思わず目を逸らした。ここへ来て初めて見せる、いじけた少年のような横顔。
<一緒に、喜んでくれると思ったんだ>
笑顔が見られると思ったのに。
自分のことばかりに必死で、ルーシャの気持ちまで汲んでやれなかった。彼女が抱く不満など、合格の報告で解消できる程度のことだと。でも、蓄積していた彼女の我慢は、そうではなかったようだ。
「まあ……俺たち男は、譲れないものに対しての姿勢なんて、そうそう変えられないからな」
反省ばかりが浮かんできて黙っている驃の前で、イルギネスが、どこか自嘲気味に呟いた。そんな口調になるのも、彼自身に覚えがありすぎるからなのだが。
「それを変えるほどの女か、それを理解してくれる女を探すしかないさ」
責めるでも寄りそうでもなく、ただの確認事項のように言って、彼はグラスを持ち上げた。そして、にんまりと笑う。
「とりあえず、昇格の祝杯を上げようぜ」
驃は顔を上げた。
そうだった。今日はめでたい日なのだ。苦しかったが、やっとまた一歩、目標に近づいたのは間違いない。せめてそのくらいは、自分を褒めてやろう。
「だな」
口元を緩めて、彼もグラスを掲げた。
「乾杯!」二人で一気にグラスを煽る。
「まあ、俺と乾杯ってのは、不本意かもしれんが」
悪戯っぽい笑みを浮かべたイルギネスに、驃が苦笑する。
「──いや、この際仕方ない」
しかし、さっきまでどん底だった気分は、浮上し始めていた。
「仕方ないだと? この野郎」イルギネスが眉根を上げたが、怒っているふうではない。
「はははっ!
驃は笑った。笑ったら急に可笑しくなって、まだ一杯煽っただけなのに、笑いが止まらなくなった。
「おいおい」
一人でゲラゲラと笑い続ける驃に、イルギネスが少し慌てる。
「こんな日まで、お前と一緒だ」
笑いすぎて涙が出た。「全く、どうしようもないな、俺は」
自虐的な言葉に、イルギネスが軽く嘆息した。
「本当だぜ。今頃彼女とイチャついてるのかと思えば、何やってるんだ」
揶揄する親友の口調は、むしろ心地良い。
「畜生。もうお前と結婚でもするか」
「待て、俺はやっとディアと……」
イルギネスが、やや本気で狼狽える。彼は二、三ヶ月ほど前、思いを寄せていた武器屋の娘、ディアと恋仲になったばかりだ。
「分かってるさ。ったく、幸せ者め」言いながら驃は、自分のグラスにまた酒を注ぎ、煽る。
「足りなさそうだな。ジョッキにしよう」イルギネスが言った。
そこでふと、驃が怪訝な顔になる。
「というか、お前こそ、なんでここで一人で飲んでんだ?」
「ん?」
イルギネスは口の端を上げ、一瞬、言葉を飲み込んだように見えた。
<お前が一歩先に行った気がして、ちょっと物思いに駆られてな>
──なんて、言えるものか。
諸々の理由があったとは言え、試験を受けないと決めたのは自分だ。それに、今の状況ときたら、親友の方が明らかに胸の痛みが深い。喜ばしいはずの日に、俺と一緒に盃を交わしているだなんて、こいつの不器用さにもほどがある。
彼は軽く座り直すと、答えた。
「恋人ができたからって、一人で飲みに出ちゃいけないわけでもなかろう」
驃がやや呆れ顔になる。それはそうだが。
「変わらないな」
すると、イルギネスは穏やかに微笑んだ。
「まあ、これが俺だからな」
それでも、ちょっとだけ、その頻度が下がっていることを、驃は気づいている。確かに、譲れないものは変えられないし、自分たちはそう簡単に変わらないだろう。だけど、少しずつ、変化もするのだ。
「無理したって、続かねえもんな」
驃が呟いた。
「変わる時は変わるし、変わらん時は変わらん」
木の板に綴られたメニューに目を走らせながら、イルギネスが言う。
「よし、食い物も頼もう。明日は非番だよな? 久し振りに朝まで飲める。盛大に行こう」
嬉しそうな親友の言葉に、驃が目を見開いた。
「ちょっと待て。お前、明日はディアと会うんじゃないのか?」
「大丈夫だ。彼女は
こいつは全く──明日の逢瀬の時、どんな状態でも知らないぞ。驃は心の中で親友を
「そう言うなら、付き合ってもらうぜ」
「お、高飛車な告白だな」
「違うって。それに、今さっき断ったばっかりだろうが」
「当たり前だ。冗談に決まってるだろう」
今度は二人してゲラゲラと笑った。
「さあ。じゃあこれから、準師範に昇格した今の思いと抱負を、たっぷり語ってもらおうか。それとも、女の話をするか?」
「女の話はもういい」驃が手をひらひらと振って断る。「あまりいじめてくれるな」
二人はあれこれ注文してから、待っている間に瓶に残っていた酒を互いにグラスに注ぎ合い、あっという間に飲みきった。
「お待たせしましたー!」
ちょうど良いタイミングで、テーブルにジョッキが二つと、頼んだ料理が続々運ばれてくる。宴の準備は整った。
「よし、あらためて──今夜は祝杯だ。奢ってやるぜ」
嬉々として言うイルギネスの青い瞳には、自分より一級上を見事に勝ち取った友を、心底祝福する喜びが浮かんでいる。驃は、やっとまた、昼間に坂道を駆け下りていた時のように、心が歓喜に満たされるのを感じた。
「もう、十年か」
十五歳で神殿併設の学校に入った時から、共に学び、剣を打ち合うだけでなく、酒やら女やら、いいことも悪いことも一緒に覚えてきたようなものだ。これからもきっと、それぞれが隣り合いながら、様々なことに直面するのだろう。
「なんだかんだ、そこら辺の女より、長い付き合いだな」
面白がるような口調のイルギネスに、驃が答えた。
「嬉しくねえな」
「フラれて来たくせに」
痛いところを突かれて、ぐっと言葉に詰まる。
「ああもう──飲むぞ!」
驃は先程よりも高く、ジョッキを掲げた。イルギネスも「よし!」とそれに倣う。
「乾杯!」
ジョッキを合わせた心地よい音が響き、二人の終わらない夜が始まった。
(了)
心腹の友 香月 優希 @YukiKazuki
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