洛陽の鹿

kanegon

洛陽の鹿

 隴西の李訓は博学才穎、幾つかの官を歴任した後、外国の言葉を覚える得意さを買われて、鴻臚寺、即ち外国の使節の接待をする官衙での仕事を任された。景教 (ネストリウス派キリスト教) を奉ずる西方出身の胡人の面倒を見るのが主な役目だった。

 玄宗皇帝が東都洛陽に滞在中の開元二十二年 (西暦734年) に、東の島国から四隻の船に乗って使節団が来朝し、急に忙しくなった。優秀な李訓は東方の島国の言葉も堪能だったので、使節団員たちの世話をするために東奔西走した。

 そして無理が祟った。六月の某日、普照、栄叡という舶来の仏僧を連れて、南市の南東に位置する章善坊にある名刹聖善寺を案内している最中、足が縺れて転倒し、そのまま意識を喪失した。


†††


 一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。牙を剥いて獲物に襲いかかった。

 狙われたのは一頭の雄の鹿だった。立派な角を持っていても虎に敵うはずもなく慌てて東へ遁走した。悠久の黄河の流れに沿って隴西から三門峡へ、更に洛陽の郊外へ。

 虎は鹿を逐う。中原を駆ける。

 洛水のすぐ南まで来て白馬寺直前で鹿を捕らえる、というところで、目が覚めて夢が終焉した。

 現実に引き戻された李訓は、苦しい呼吸の中で過労で倒れたのを思い出す。元々年齢のせいで病がちだった。己に残された寿命が長くないと悟った。

「起きられましたか」

 傍らから心配そうな声が聞こえた。妻ではなく、男の声だった。目を向けると、見覚えのある顔の黒目黒髪の外国人がいた。確か、前回の船に乗ってこの大唐帝国へ渡り、長年滞在している東国の者だ。名は何といったか。病が篤いせいか、記憶が曖昧模糊として思い出せない。

 それよりも、夢で見た鹿の顛末が気になった。

「病のせいか、失念したので教えてくださらぬか。『中原に鹿を逐い』という詩を詠んだのは誰だったでしょうか」

「魏徴の『述懐』ですね。中原還逐鹿、投筆事戎軒、です」

 外国人は即答した。魏徴は唐の初期に皇帝を補佐した名臣だ。

「思い出しました。魏徴でした。ところで、妻は近くに居りますかな。孫のことを聞きたいのですが」

「まだ産まれていませんし、三門峡と洛陽では距離がありますから、すぐには連絡は届きませんよ。そんなことより自分の身の心配をしてください」

 妻は外国人の背後に居た。孫の誕生を心待ちにしているのは夫の李訓も妻も同じだった。

 今年五十二歳の李訓には、既に数人の孫がいる。全員が女の子だった。今回、長男の嫁が身籠っている胎児は虎のように元気で、母の腹を内側から幾度も蹴っているという。待望の男の子だと期待が膨らんでいる。

「どうやら、男の子の初孫は、じじいの命と引き換えらしい。子どもの名前は、かの名臣魏徴にあやかり徴にするのだ。三門峡の息子と嫁に伝えておいてほしい」

「名前など早すぎです。まだ男の子か女の子かも分からないのに」

「男の子で間違い無い。これは私からの遺言だ」

「遺言こそ、孫の名前より早すぎですよ」

 呆れたような口調ではあったが、それでも「手紙に書いて伝えておきます」と言って妻は退室した。

 残ったのは東国の外国人だけだ。長年の付き合いがあるが、病床の李訓は彼の名前を思い出せない。

「李鴻臚寺丞どの、あなたに今までのお礼と最後のお別れを言いたかったのです。私は、今回来た船に乗って帰国します。恐らく二度とお会いできなくなると思います」

「無事の航海をお祈りします。それにしても唐の言葉が大変堪能になられましたな」

「長年在唐いたしましたから。それもこれも、あなたに何かとお世話になったおかげです」

「そう言っていただけると、自分の天命として、外国の方々と交流する鴻臚寺の仕事を頑張って来た甲斐があったというものです。ところで申し訳ない。病のせいか、あなたの名前を思い出せないのです」

「私の名前は……」

 外国人が名乗ろうとした時、李訓は目を閉じて眠りに落ちてしまった。浅い呼吸は安らかさからは遠かった。外国人は名を告げるのを諦め、人を呼びに行くことにした。


†††


 李訓は再び目覚めること無く、男の子の初孫誕生を知らぬまま、六月二十日に息を引き取った。結局、最後に会った外国人の名を聞くことなく幽冥界を異にすることとなってしまった。

 洛陽城東郊の感徳郷の原で、仮の殯 (もがり) が行われた。感徳郷一帯は金髪碧眼の胡人たちが多く住んでいる集落だ。胡人たちは十字架を持って、棺に入った李訓との別れをひと時惜しんだ。故人は外国人に慕われていたのだ。

 李訓は埋葬されたのは六月二十五日だった。墓誌の文章を撰したのは褚思光という科挙官僚だった。

 筆を執って楷書で字を記したのは「日本国朝臣備」という人物だった。問われて答えられなかった名を落款として刻んで故人李訓に寄り添ったのだった。

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