南大深度海

 南大深度海。

 それは、どこまでも暗く深い海。

 一たび波に飲み込まれれば、何者も浮かび上がれぬ底知れぬ海である。

 海域の気候は苛烈で、年中暴風が吹き荒れ、重苦しい灰色の雲が絶えることがない。

 この海域を横断できた船はこれまでに記録がなく、数知れぬ海の冒険者が志半ばで、この海に命を落とした。


 そんな南大深度海の西端を進む一隻の船がある。

 近年各国が競うように建造し始めた鉄鋼戦艦メタルウォーシップだ。

 巨大な鈍色の船体が荒れる大波を突き破り、進む。

 世界にただ一つ、三連装の主砲塔を三基も装備した海の上の要塞。

 その戦艦の名は、新生マキナリア共和国海軍旗艦、タイクンロード。


「次官殿。なんとも気味悪い海ですな。こんな海域は早急に離脱したいものです」

 吹きすさぶ風の中、立派な体格に見事なカイゼルひげの海軍将校は、軍服の大きな襟を立てた。

「南の海というから陽気な所かと思ってたが、思いのほか、寒いものだね」

 甲板の上、軍需次官シーナ・エッツは強い風に煽られ、枯れ木のような細い体で杖を踏ん張り、主砲の台座に寄りかかった。

「サザンテラルに赴くなら、まっすぐ北を進めばよいものを。わざわざ遠回りするとはギルモア軍需大臣も酔狂ですな。まあ、このタイクンロードならこれしきの海、たやすく走破できましょうが」

「まあ、そうだがね。南大深度海の横断も、この船が歴史に残る最初の船となるだろう」

 灰色のコートをひるがえしながら、シーナは巨人の手のひらのような主砲を見上げ、うっとりと目を細めた。


「それにしても、この馬鹿でかい主砲を使う時はいつになるんでしょうな? 先の大戦も終わったばかりで、各国はこれから復興という時勢ですし、ようやく平和に向かい始めたところです」

 そう言う将校の肩をシーナの杖が叩いた。

「なにを言っておるのか、君は。戦争屋がそういうことを口にするものではない。戦争とはなによりも大きな利権なのだ。戦をすれば、物資の補給で巨万の富が動く。破壊すれば、復興のために金が動く。この主砲の弾一つにしても一体いくらすると思うのだ?」

 将校がひげを掻きながら、答える。

「どうも申しわけありません。自分はそういう金の話は不案内でして……。自分の給料の何年分となりますことか……」


「騎士が互いの道義のために闘いあう時代は終わったのだ。今後は企業のために国同士が戦うことになる。君も武人として、このことをしっかりと心にとめておきたまえ」

 シーナは将校の肩先を杖で小突いた。

「はあ……。確かに了解しました」

 将校は不承不承の顔つきでひげを指で伸ばした。


「さあ、いよいよ南大深度海に突入だ! ギルモア大臣も本艦の偉業達成を心待ちにしておられる。機関室に司令を出したまえ!」

 シーナが甲板を杖で叩き、一喝した。

「はっ!」と敬礼すると、将校は風にあらがいながら、艦橋へと走った。

 残されたシーナは、再び眼前に広がる暗鬱な海を見渡し、独りごちた。


「時代は変わるのだ。我々の手によってな。南大深度海の横断などその露払いにすぎぬ」


 ◇◆◇


 サザンテラル王宮の一室。

 セフィールたちとジョアンヌ王女がテーブルを囲んでいる。


「王女様、南大深度海の中心って、そんな場所に行った船ってあるの?」とセフィール。

「そうだよな。南大深度海といえば、商船や漁師たちにも恐れられる危ない海だよな。だから、手つかずの海産資源が豊富なわけだし」

「そう、そう! 海産物といえば、ニジイロタカアシガニとか、ニジイロタカアシガニとか、ニジイロタカアシガニとか!」

 セフィールは目を輝かせ、立ち上がった。

「え? ニジイロタカアシガニですか?」

 テンションの異様に高いセフィールに、どこか怪訝な顔のジョアンヌ。

「ニジイロタカアシガニは姉の大好物ですの」とうんざり顔のルフィール。


「カニの話は置いといて、どうやってその島に行くんですか、王女殿下?」

「どうして、カニは置いとくのよ!」と横からうるさいセフィールを無視して、キースはジョアンヌの答えを待った。


「サザンテラル海軍の高速艇を使います」

「サザンテラル海軍の高速艇といえば……」とキースは苦々しい顔。

「昼間に私たちに大波をぶっかけた、あの船ですわ……」

「ニジイロタカアシガニを逃がしちゃった、あの船!」


「皆さん、うちの高速艇をご存じですの?」

「ええ、とても立派な船ですわ」

 誉め言葉の割に、目が三角のルフィールであった。

「確かにあの船なら馬力がありそうだし、少々の荒海なら突破できそうではあるがな。しかし、相手は南大深度海だし、それでも危険な気がするが……」


「それはそうなのですが、実はこの地図に大事なことが書いてあるのです」

 ジョアンヌは指で地図を突き、セフィールのほうを何度も見る。

 何のことかわからず、セフィールはポカンとそれを見返した。


「お姉様、王女様は地図の文字をお姉様に読んで欲しいのですよ」とルフィールが助け船。

「ああ……、それなら、ここかな」

 セフィールがテーブルに身を乗り出し、文字を読み上げる。


『ただ、我々の聖なる濃き血を受け継ぐ者、その者が大海を渡る時、漆黒の海は島への道を指し示すであろう』


「その聖なる濃き血を受け継ぐ者ってのが、ジョアンヌ王女ってことか」

「先ほどの魔力、確かにあれは聖なる三十三王家に受け継がれるものだと思うのだけど、それだけでここに書いていることを信用してよいものなのかしら?」

 ルフィールがピートの髪を指でいじりながら、つぶやく。

「心配はご無用です。駄目そうな場合は、無茶をせずに引き返しますから。あなた方を危険な目に遭わせたりしません」

「虎穴に入らずんばニジイロタカアシガニをえず!」

「それより、王女殿下。あなたのお兄さんは、その島に本当にいるのですか?」

 キースの横でわめくセフィールを無視して、キースが訊いた。

「それは確証はありませんが、兄が消息不明になる前の手紙には、何度も【はじまりの島】のことが書いてありました。そして、最後に兄の姿が目撃されたのは、南大深度海に面した港町でした」


 キースが無精ひげを指で撫でる。

「なるほど、可能性はあるってことか……」

「王女様のお兄様なら、きっと三十三王家の力はありますわね。それならば、南大深度海の中心に行くこともできるかもですわ」とルフィール。


「どうせ、暇なんだから、行けばいいじゃない。そして、ニジイロタカアシガニもいっぱい獲るのよ!」

「暇は暇だが、今後のために金を稼がないといけねえしな」

「もちろんお給金はお出しします。どうか、お願いできませんか?」

 ジョアンヌが立ち上がり、深々と頭を下げる。

「王女殿下! 頭をお上げください。……おい、セフィールとルフィール、どうするよ?」

 セフィールとルフィールは勢いよく手を挙げた。ルフィールはピートの手も持ち上げている。


「ありがとう、皆さん!」

 破顔したジョアンヌは、また深々と頭を下げた。

 それから、そそくさと身なりを正し、

「では、皆さん行きましょう!」と誘う。


「えっ、これから?」と三人は同時に訊き返した。

「ええ、父に見つからないうちに出発しなければ。それに婚礼の祭典までには戻ってこないといけませんし」


「王女様のお父さんというと、王様よね」とセフィール。

「ああ、サザンテラルの王様といえば……」とキースは苦々しい表情。

「南の猛虎、シンバ王ですわ」

「猛将王のあのおっかない王様か……」

「ジョアンヌ王女、お父さんの許可は取ってないの?」

 セフィールがジョアンヌの袖を引いた。


「もちろんです。うちの父が結婚直前にこんな危ないこと許すはずありませんから」

 ジョアンヌはそう答え、爽やかに笑った。

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