セフィールとルフィール

 水が静かに弾ける音。

 風にそよぐなにかの衣擦れの音。

 どこか懐かしい匂いがする。

 これは──、お父様が昔炊いてくれた南国のお香の香り?


 腕を動かすと、柔らかい布の感触。

 肌触りのよさに、何度も握り締めてみる。


 ああ、そうか。

 自分の国に戻ったんだ。


 お父様が暗殺され、国を追い出されるなんてあるはずがない。

 あれは悪い夢だったんだ。

 きっと、そうだ。


 セフィールはまどろみつつも、上半身をそろりと起こした。

 薄闇の中、自分が今いるのは、大きなベッドの上だとわかった。

 そのまわりは白い絹のようなベールで囲われ、外の様子はぼんやりとしかわからない。

 ベールの隙間からは淡い光が差しこんでいる。


 あれ? 私の部屋とはなんだか違うようだけど?

 

 闇に慣れてきた目に映るのは、自分の知らない部屋。


 ここは、私の部屋じゃない……。

 夢だと思ったのは、やはり現実……。


 セフィールは大きくため息をついた。


 ベールの向こうに人の気配がした。

 その人影がベールの隙間から、そっとベッドをのぞき込み、

「あら、お嬢ちゃん。気がついたのね?」と声を掛けてきた。

 その人は入ってくると、ベッドの横に立った。


「えっ? お姉さんは誰?」

 入ってきた女性を見上げ、セフィールが訊く。

 女性は長い黒髪のエキゾティックな風貌で、金糸銀糸を織り交ぜたガウンを身にまとっている。


「ああ、そういえばマスクをしていたから、お嬢ちゃんは私の顔は知らないのね」

 その言葉にセフィールは急速に現実に戻された。


 このお姉さんは酒場にいた女の人だ。

 確か、酒場で地図にあった文字を読んで、そのあとはなんだか全身がビリビリ痺れるように物凄く気分がよかったような覚えがあるのだけど……。

 それから先は全然記憶がない。


「お嬢ちゃん、お名前はセフィールさんなのね」

「お姉さん、どうして私の名前を知ってるの?」

「妹さんとご一緒の男の方からお聞きしました」

「その人たちは、今どこにいるの?」

「ここにいますよ。別の部屋ですが」

 部屋と聞き、セフィールは改めて周囲を見回した。

「ところで、ここはどこなの?」

「私の部屋よ。気にしないでゆっくりしてね、と言いたいけど……」

「けど、なに?」

「妹さんはお風呂に入っているし、あなたも体を洗ったほうがいいわ。着替えは用意するから」

 そう言われて、セフィールは自分の身なりを確認してみる。

 服は薄手のガウンのようなものを着ている。

 体は、まだ海の匂いがするし、汗くさいかもしれない。


「じゃあ、一緒に浴場に行きましょう。私も入りたいですし」

 女性に手を引かれ、セフィールはベッドを降り、部屋を出た。

 セフィールは外の光景に驚いた。


 大樹の幹のような太い柱が立ち並ぶ回廊がどこまでも続いている。

 床は光沢のあるタイルが色とりどりに敷きつめられ、セフィールが見ても高価な造りだとわかる。


 この女の人、ちょっとやそっとのお金持ちじゃない!


 セフィールは女性の顔を見上げ、

「お姉さんはいったい誰なの?」と訊いた。


「私はシンバ王の娘のジョアンヌです。お嬢ちゃんは酒場で先生のお酒を飲んで酔っ払ってたから覚えてないのね。うふふ」

「王様の娘ってことは……、えーと?」

「シンバ王の第一王女よ」

「えっ! お姉さんは王女様なの? じゃあ、ここは王宮!」

 びっくりして、まじまじと彼女の顔を眺めると、見たことがある様な気がしないでもない。

 なにかの儀式か祭典の折に、セフィールの国に来たことがあるのかもしれない。


「さあ、こっちよ。お嬢ちゃん」

 ジョアンヌに手を引かれながら、セフィールは思う。


 自分も王女だ。

 しかし、今の自分は正式な王女ではなく、追われ者の身だ。

「私も王女なの」と喉まで出かけた言葉を、グッと飲みこんだ。


 ほの暗い回廊をしばらく歩くと、水音がしてきた。

 ベールをかぶった女性が二人、ぽっかりと開いた入り口の左右に座している。

 ジョアンヌが近づくと、二人は目を伏せ恭しく一礼した。

 床まで垂れた幕を押しくぐりながら、ジョアンヌが言う。

「うちのお父様は扉というものが大嫌いでね、宮殿にはどの部屋にも扉がないの」

 セフィールは宮殿に扉がないなんて、無用心だと思ったが、

 眼前の光景に心をとらわれ、言葉を返せなかった。


 その浴場は王の謁見室のように広く、緑の木々でとり囲まれ、まるでジャングルの中にある池のようだった。

「サザンテラルは温泉が湧くから、ここも温泉から湯を引いているの」

 ジョアンヌはそう言い、服を脱ぎ始めた。

 セフィールもそれに習い、服を脱ぎかけたが、途中でやめた。


 そういえば、パンツって、昼の漁でかなり汚れてたんじゃ?


 慌ててそそくさと確かめたら、履いてなかった。

「ああ、申しわけないけど、お嬢ちゃんの下着は処分しちゃったわ。新しいのを用意させてるから、それで我慢してね」

「あ……、どうも……」

 うつむいてペコリと頭だけ下げる。ちょっと気恥ずかしいセフィールだった。


 服を脱ぎ終え、ジョアンヌについていく。

 松明たいまつが焚かれ、浴場の水面にその火影が揺らめいている。

 その中、一人の少女の背中が見えた。

 ふわりとした金髪のその少女は、妹のルフィールだった。

 ルフィールは二人に気付き、振り向く。


「あら、お姉様。目が覚めましたのね。よかった!」

 ルフィールが立ち上がり、浴槽の縁まで近寄ってきた。

「どこも具合は悪くありませんの?」

「うん、頭が少し痛いだけかな……」

 そう答え、セフィールは妹から視線を逸らす。

 酒場では酔っ払って、ルフィールに失態を晒したに違いない、と思ったからだ。


「さあ、三人で入りましょう」

 ジョアンヌがセフィールの手を取り、湯船に導く。

 湯船に足を落とした途端、ルフィールが抱きついてきた。

「お姉様、心配したのですよ!」

 双子の妹に裸で抱きつかれ、セフィールは戸惑った。

 自分と同じ横顔が間近にある。

 ただ一つだけ自分と違うのは、目つきだった。

 柔和なルフィールとは違い、自分の目つきはちょっと悪い。

 ああ……、もう一つあった。

 双子のくせに、ルフィールのほうが最近胸が少しだけ大きいような気がする。


「ああ、いい気持ち!」

 ジョアンヌが歓喜の声をあげた。

 セフィールとルフィールも互いに離れ、湯船に浸かった。

「本当に極楽とはこのことですわ。ジョアンヌ王女」

 ルフィールの頬は朱色に染まっている。

「ルフィールちゃん。そうそう、お風呂は最高ね。私も一日に何度も入ります。それから、王女は要らないわ。ジョアンヌでいいですよ」

 セフィールはルフィールに顔を寄せ、

「ねえ、ルフィール。あんた、自分のことを王女だとジョアンヌ王女に言った?」と耳打ちした。

 ルフィールは人のよさそうな目を丸め、返す。

「お姉様、そんなこと言うはずありませんわ。あんな格好じゃ信じてもらえませんし」

「まあ、そうね。王女がよその国の酒場で働いているなんてありえないし」

 ルフィールは「そうそう」とうなずき、肩まで湯に浸かり、気持ちよさそうに目を細めた。


 思えば、こんな立派な風呂に入るのは、国を出てから初めてだ。

 妹はこの幸運を心ゆくまで堪能したいのだろう。

 ジョアンヌが、そんなセフィールたちをにこやかに見守っている。

「セフィールちゃんたちは、どこから来たの? 見た感じこの国の方じゃなさそうだし」

「あ、あの……、えーとね」

 セフィールが答えあぐねていると、ルフィールが、

「はい、トライ・ラテラルです」と快活に答えた。

 その言葉にジョアンヌの顔が曇る。


「トライ・ラテラル……。もしかしたら難民さん? あっ、ごめんなさい。こんなこと訊いちゃって」

「いえ、かまいません。だって、そうですから」

 ルフィールは表情一つ変えなかった。

 セフィールはこうしたルフィールの大人びた態度をいつもながら凄いと思う。

 同じ双子なのに、自分はどうして子どもっぽいのだろうと感じ、口まで湯船に浸けてブクブクと泡を吹いた。


 まあ、口が悪いのも凄いと思うこともあるけどね……。


 そう考え、セフィールは人知れずニヤリと笑うのだった。

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