三題噺「兄弟」「金」「タブー」(約4,000文字)

 おまえが百人くらい居ればいいのにと、曇りひとつない笑顔で言う男を兄に持って生まれた。

 愛が重いのやら軽いのやら、判断がつかないがどうあれ気持ち悪いのは確かだ。お前のすべきはいま目の前にいる唯一の弟を大事にすること、それを大量のスペアを確保することで代替しようとするなと、そんな常識の通じる相手でないことは俺が誰より知ってる。

 兄は言う。弟が百人いたら何ができる? まずファランクスが組める。それと、富士山の上でおにぎりを食ったっていい。自由だ。弟の数だけ可能性が生まれる。つまり一体しかない弟の身を案じてケチケチする必要がなくなって、今よりもずっと大胆かつ強引な弟の使い方ができるようになる——と、そんなことを大真面目に力説なんかするから、年がら年中フラれてばかりいるのだ。

 俺の兄、かつらミツルは化け物だ。何がどう化け物かといえば性の化け物で、もうむやみやたらと女にモテる。こう言うとさっきの年がら年中フラれてるというのと矛盾しているようだが、このフラれるというのは「告白して玉砕する」という意味じゃない。「女の子の方から言い寄られて生返事で付き合うことにして、でも大抵ひと月も経たないうちに一方的に逆上されて破局する」という意味だ。最悪だ。女ってのはどうしてこうも見る目がないのかと、そんなことはでも微塵も思わない。こいつが悪い。こんなにも顔がよくて頭もよくてしかも上背まであってスポーツ万能となると、いっそ中身がクソなことが詐欺みたいなものだ。

 それでも大学を卒業して、社会人になれば落ち着くかと思った。そんなことはなかった。相変わらず短い周期で女を取っ替え引っ替え、そのうち刺されるじゃねーのお前という俺のその心配に、でもこいつは「女が俺を取っ替え引っ替えしてんの」と涼しい顔だ。それはわかる。そこまでなら確かに客観的な事実で、なのにその先に「だから俺が刺す方」とか続けるから話がややこしくなるのだ。

 ——頭がおかしくなる。こいつと話してると一事が万事この調子で、こんな兄のいる環境で俺はよくまともに育ったとものだと思う。

 ちゃんと大学にも行ってる。兄の通ったそれよりは多少格が下がるが、それはこいつが優秀すぎるのがいけない。彼女もできた。もうフラれちゃったしその傷はいまだに癒えてないけど、でもこの兄のような修羅場にならなかったことに関しては胸を張れる。まあ、人並みだ。むしろ恵まれている方じゃないかって思う。この兄と違って「なんでもできるしモテまくる」みたいなことはないけど、それでもどちらかといえば優秀な方で、見た目もそう悪くない側に括られるらしいから。

 ——それもこいつが常にまとわりついてくるせいで台無しっていうか、結果的に「特に美点のない平凡でパッとしない弟」みたいな扱いになるけど。

「はい出た。おまえがそうやっておれのことをいちいち袖にするから、スペアがあればいいなって話になるわけで」

 ならない。なぜならスペアを九十九体用意したところで、でもそれは結局全部俺なのだ。多少の個体差はあれどおそらく根っこの部分は同一、例えば「死ぬほどウザい兄をどうにかしたい」という思いは我らひとり残らず同じで、結果ファランクスなどを組んで突撃する。おまえの元へ、その素っ首を刎ねんがため。そのはずだ。間違いなくそうなると俺は確信しているのだけれど、しかし「じゃあその首魁たるおまえがなんでこうしておれをアパートにあげて仲良くアイスとか食べてんの」と、真っ直ぐそう問われたなら返す言葉もない。

 ——裏切ってしまった。残り九十九人のまだ見ぬ同志たちを、たかだか高級アイスクリームのひとつやふたつや三つ四つ五つくらいで。

「ダッツは卑怯だろ。俺んちの冷蔵庫、冷凍室ねえの知っててさあ」

 そのまま溶かして無駄にするわけにはいかない。この場で食べきってしまう必要があって、つまりこの兄は金に物を言わせた。最低だ。弟の歓心を買う方法としてはおおよそ最悪の部類に入って、だがこういうところはやはりこいつらしいなとも思う。手段を選ばない、というより、使える物を使うことに躊躇いがない。もともと頭のよさと顔のよさで好き放題やりまくってきた男が、いよいよ一流企業に入ってなんかとんでもない額のお給料までもらうようになって、つまり最近は札束で殴りまくっている。俺の頬を。ということは、おそらく必然的に、周囲の知人友人そして交際相手などの頬も。

 大丈夫なんだろうか。そんな心配は、でもするだけ無駄だってもう何年も前に学んだ。こいつはなんでもやれるしどんな危機だって切り抜ける男で、だからさっぱり忘れて俺は俺の人生のことに集中しているのに、なぜだかちょいちょい、しょっちゅう、ことあるごとにこいつは俺を構おうとする。何考えてんだって思う。たぶん何も考えてねえなコレとも思う。こんな学生向けの安アパートに、毎月少なくとも一度は足繁く通って、そんな話を友達にすると大抵引かれる。いやどうなってんのお前んちの兄ちゃんと、それは兄弟仲がいいとかそういう次元超えてると思うよと、こいつの顔と頭を知らないが故に先入観のない学友らのその評価でもって、俺はやっとのことで実感したのだ。ああこいつ、やっぱおかしいんだよなあ世間的には、と。

「いいやおかしくない。おれはなあ、おまえのことが心配なんだよ」

 おまえがいつまでもそんなだから。過去にも一度、そんなことを言われたのを覚えている。アホか誰のせいだと思ってると普通に言い返した覚えがあって、だって俺がしょっちゅう危ない目に遭うのは、全部こいつのせいっていうかこいつの彼女のせいだ。

 曲がりなりにも交際相手であるはずの女をほったらかしにして、弟のことをかまっていじってひたすら甘やかすばかりか、口を開けばいつもあんたのことばかりなのよもういい加減にしてと、おおよそそんな話を金切り声で叫ばれたときは本当にどうしようかと思った。本来なら「またか」と思うべき場面で、つまりその苦情自体はもう一度や二度じゃないけど、さすがにギラつく包丁を前にそう嘯けるほど図太くはない。

 ——あるいは、なんでもできちゃう無敵のこの兄だったら、包丁程度はなんてことないのかもしれないが。

 兄は言う。女なら星の数ほどいるけど、弟はおまえひとりしかいないから、と。俺はこいつほどの交際経験があるわけじゃないけど、でも「それ言っちゃったら全部おしまいになるやつだろ」と確信できるタブーを平気で口にして、でもその程度ならもう今更だ。正しい。確かに間違いではないのだけれど、でもその「おまえひとりだけ」に対して、普通「だから百体くらいに増やしたいよね」とはならんだろ、とも思う。しかもそれをそのまま星の数ほどいる女たちに平気で言っちゃったりするから、星の数ほどの刃物が俺の方を向くことになるのだ。

 率直に言って逆恨みもいいとこ、でも正直なところ彼女らの気持ちはわかる。俺だってこの兄はもうどうしようもない人でなしだと思うけれど、それでも何をどうやっても憎めないしましてや刺すなんてとんでもないと思ってしまうのは、結局こいつがあまりにも魅力的すぎるからだ。

 たぶん、人間よりもインキュバスかなんかに近い生き物。女に生まれなくてよかったとつくづく思う。こんなに恨めしいのに恨めないほど好きな相手と、しかも向こうからはまったく好かれる気配もないまま交際するっていうのは、相当な生き地獄だろうなって勝手な想像ながら思う。

 可哀想な話だ。運悪くこんな化け物に出会ってしまった女たちもだけれど、なにより化け物に生まれついてしまったこの男自身が。これまでも、そしてこれからも、きっと星の数ほどの生き地獄を生み出しては捨てて、でもその人生の他に己の生きる道を知らない、あまりにも純粋で不器用な命。

 ——いっそ本当に、スカッと〝刺す方〟に回れたなら、こいつとしては気が楽なのだろうけれど。

「なあ兄貴。生憎だけど、俺はお前に心配されるようなことは何もねえよ」

 そんなに。少なくともここ最近は、あってもちょっとした嫌がらせくらいのもので、だからやめてくれお前が〝刺す方〟に回るのだけは——という、それがいま俺とこいつの間、ただひとつ交わされた絶対の約束だ。こいつは俺のこととなると本当に見境がなくて、たとえ彼女なり元カノなりが相手でも普通に殴る蹴る刺すくらいのことはやりかねなくて、だから俺がこうして手綱を握るしかない。「大好きな弟の言いつけ」という形だからこそ効力のある禁忌。だが正直なところ懸念はあるというか、不安がないかと言えば嘘になる。

 ——こんなやり方、その場凌ぎの雑な生き方が、はたしていつまで保つものだろうか?

 まともじゃない。もとよりこいつも、その弟たる俺も、どうも碌でもない人生の隘路にはまっているっぽいぞという自覚はあって、だがそれでもまだ恵まれている方なら文句も言えない。こうして毎月腹一杯ダッツを食える、それが幸福でなければ一体何が幸福だというのか。俺としてはこいつがこのまま、このさき繰り返し女を泣かせたりキレさせたりしながらであっても、ただこうしていつもの笑顔を見せてくれたら、つまり俺の元にずっといてくれればそれでいいのだ。

 分ける気はない。勝手に惹かれてキレて去ってゆく女たちはもちろん、同じおれあっても同じこと。こいつの重いんだか軽いんだかわからん異常な偏愛は、分け合うにはあまりに癖がありすぎて、だから誰にも譲らない。まったく兄弟ってのは面倒なもので、それでも内心悪い気はしないのだから、俺も正直こいつのことは言えない。

 だから、いらない。他は何も、それこそ刺されてしまったときの備えの、九十九人の俺のスペアたちだって。

 こいつにはただひとり、この世に唯一の弟がいればいいのだ。




〈三題噺「兄弟」「金」「タブー」 了〉




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三題噺・小品・習作等 和田島イサキ @wdzm

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