エッセイ『電気ケトルと私』(約2,700文字)

 誰も和田島のことに興味なんてないのだ。

 死んでゆく。誰からも顧みられることなく、ただ孤独に。そんな無価値な塵芥の日常など誰が気にする、という以前に、まず〝自分〟として誰かに話すことが苦手だった。どうにか狂言回しの真似事ならやれても、随筆となるととても書ける気がしない。そこで考えた。〝誰か〟に向けて書くのではなく、己に向けてのいわゆる日記としたらどうだろう、と。

 勘案の末、試しに一度やってみることに決めた。自分へ、つまりお前に向けてだ。もとより憧れはないでもなくて、手軽に承認欲求を満たすなら今の時代はやはりエッセイ漫画に尽きる。絵はいずれ描けるようになるものとして、とりあえずは文章で書いてみることとする。

 きっかけは私がいつもお世話になっている灰崎さん、その素敵なエッセイを読ませてもらったことだ。電気ケトルのお話。以下にURLを記す。内容は読んだ通りだが、ざっくり説明すると電気ケトルを突き飛ばしてしまったというお話だ。


『我が家のわく子さん』/灰崎千尋

https://kakuyomu.jp/works/16817330651765202437/episodes/16817330651765273439


 読み終えて思った。とても他人事とは思えない、と。つい「あっ私も私も」と言ってしまうくらい、私自身も最近似たようなことをした。あるいは彼女は私だったのか? そんな考えが一瞬脳裏を掠めるも、しかし全部が全部同じというわけではもちろんない。彼女の電気ケトルは夫と共に購入した思い出の品だ。お前は違う。すわ壊してしまったかと慌てたとき、彼女にはすぐ相談できる夫がいた。お前は違う。

 電気ケトルはひとりで買った。なんでもよかった。ただお湯さえ沸かせるなら別にそれで。どうせ金もない。だから一番安いやつを大手ネット通販サイトで購入しようとして、でもそこではたと思い留まった。そのサイトは評判が悪い。電化製品なんぞを買おうものなら偽物の粗悪品の不良品を送り付けてきて、それが漏電などした結果家ごとメラメラ燃えて死ぬであろうことは明白だった。別にそれでもいいといえばまあその通り。どのみち誰からも顧みられることのない命、さりとて自分で終わりにするほどの度胸もなく、しかし偶然の事故が楽にしてくれるのなら——と、一瞬そう思いかけたがしかし「ア◯◯◯に殺されるのだけは嫌」と思い直した。普段はあまり信心深い方ではないのだが、なんか来世が虫とかになるタイプの死に方な気がする。なので殺されても大丈夫そうな別の家電量販店、比較的評判のいいところのネット通販にした。

 やたら安かった。千円。他の電気ケトルより頭ひとつふたつ抜けて安価で、品切れになる前にと何も考えず飛びついた。最初は「いやあ良い買い物ができた」と——逆に言えば私が良い買い物をしたぶん誰かひとり千円で買えなくなった人が出てきたやーいざまあみろ、と——大変満足だったのだけれど、でもだんだん不安になってきた。だって千円だ。しかも製造元は見たことも聞いたこともない名の会社で、なにより見るからに安っぽい。買って一、二カ月程度なのにもう動作の怪しいところがあって、これじゃ例の大手通販サイトで買うのと大差なかったのでは、と、そんな文句をつける資格はしかし今の私にはもうない。

 少し前、本当につい最近のこと、この電気ケトルを吹っ飛ばして壁に叩きつけたのは私だ。

 そのせいで壊れたのかもしれないと、その可能性はどうしても否定できない。結構な勢いだった。だってこのケトルが私を怒らせるから、というわけではもちろんなく、単純に手が滑った結果の事故だ。すっぽ抜けた。お湯や水が入ってなかったのが不幸中の幸いで、壁に激突して床の上を跳ね転がっただけで済んだ。まあ千円の商品、こういう雑な使い方をするために安物を選んだのだからと、そのはずがでも「ヤダーッ買ったばっかなのにーッ!」と思わず絶叫しかけた。だって千円でも万円でも買ったばっかは買ったばっかだ。おろしたての新品というのは気分が良いもので、なのに一気にケチがついたような気がして、なんだか無性に憎らしくすら思えてきた。

 結果から言えばケトルは無事だった。取っ手が欠けたり蓋が取れたりということもなく、今日も元気に私のためのお湯を沸かしてくれている。たぶん。一見、少なくともぱっと見はそう見えるというだけの話で、見えない内部の方にダメージがあったのかもしれない。実は短絡した回路がバチバチ火花を散らして、日夜私の家を焼かんと画策しているのではないかと、そんな疑念を私は最近このケトルに感じる。殺される。こいつは私から壁に叩きつけられたことを逆恨みしていて、しかももともと千円なんだからきっと忠義もない。怖い。こないだの一件は決してわざとじゃなかったのだけれど、今更そんな言い訳になんの意味があろう。もう殴り続けるしかなかった。事実、昔の家電の不具合は殴って直したもので、つまり「使うもの」「使われるもの」の線を毎日引き直してあげることが重要なのだ。


 ——このッ。思い知れッ、このッ、このッ。


 お前のせいで。お前のせいで私には伴侶がいない。恋人もなくいつもひとりぼっちだ。ひとりの夜は寒い。特にこの頃は冬の冷たさが身に染みるようで、なのにお前まで私を裏切るというのか。千円のくせに。さすがに千円なら私より〝下〟のはずで、なのにどうして私の言うことを聞かない。従順にお湯を沸かすふりをしながらきっと内心では私のことを馬鹿にしていて、そういう部分を直してあげるために私は今日もお前のことを殴るのだ——と、近頃の心境としては大体そんな感じだ。実際には殴らない。さすがに。たぶん病院に行った方がいいやつだし、物言わぬケトルを殴ってもしようがない。


 壁に叩きつけられた私のケトル。壊れこそしなかったがちょっぴり傷物になって、なんだか擦れたような黒い跡がついてしまった。せっかくの新品がと最初は思ったものの、でも逆にこれくらいがちょうどいいのかもしれない。まあいいかという気持ちで適当に使える。火が出たら火が出たでそれはそのとき、もとより塵芥の如き人生だ。この世のすべてを恨みながら灰となる、そういう末路もひとり歩む道なら怖くはない。


 ただ一点、なんで傷跡が黒いのかがわからない。

 別に黒い壁にぶつけたわけでもないのに、一体なんの汚れなのか。

 いま確認したら相変わらず黒い。なんだかシミのようにも見えて、また心なしか少し濃くなってきているような気もする。なるほど、これが使い込むうちにできる個性というものかと、私は少しほっこりした気持ちで今日もお湯を沸かすのでした。




〈電気ケトルと私 了〉

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