Day2:華族専門病院の朝
肌寒さに目が覚めた。
病院の廊下はそこかしこで、きびきびとした少しテンポの速い足音がする。
おそらく、看護師たちが各々の持ち場で、診察の準備をしてるのだろう。
僕はロビーを見回した。
華族専門病院なだけあって、患者はまばらだ。
ほとんどの患者は診療開始後に車で乗りつけ、待たずに診察を受けるはずなので、受付で待ってるのは、概ね華族の紹介を受けた一般患者だ。
そして、僕もその華族専門病院の恩恵にあずかっている。
なんといっても、ロビーに置かれたこのソファー、うちのベッドより寝心地がいい。
これで、掛け布団でもあれば文句なしだが、冴島さんが出してくれた麗ちゃん用の膝掛けでなんとかしのげた。
その冴島さんは、宝谷専務を家まで送ったあと、この病院の駐車場で待機しているはず。
冴島さんには僕も帰っていいと言われたが、母親を幼いころになくした麗ちゃんには、今は病気で入院している父親しか家族はいない。
こういう時こそ、長年彼女と行動を共にした僕の出番ということで、病院に泊まったのだが、同じ部屋にずっといるわけにもいかず、このソファーで一晩を過ごすこととなった。
その麗ちゃんは、単なる過労と診断され、処置は解熱剤と点滴だけですんだ。
いつもなら、そろそろ彼女も目を覚ますころ。
病室に行ってみようと立ち上がったところ、ポケットの携帯フォンが軽やかなメロディを奏でた。
どうやらメールが入ったらしい。
ちょうどソファーの横に投影ガラスがあったので、操作してメールの内容を飛ばした。
ガラスには省電力投影シートが貼られてるので、無線操作でディスプレイとして使用できる。
この省電力投影シートの特許を持ってるのは、昨晩、桐松院に売却されることになった九条院の家電メーカーだ。
安価で電力をあまり消費しないので、今ではいたる場所に普及している。
映されたメールは学内連絡網の緊急通信のようだった。
『昼休み、視聴覚室にて特別上映会開催、全生徒集合のこと』
発信者の記載がないので、正規のイベントではないかもしれない。
学校で確かめようと思い、接続を切り、麗ちゃんの病室へ向かった。
道すがら、外を眺めると昨日のひどい雨が嘘のように晴れ渡り、気持ちのいい朝だ。
商談もうまくいきそうだし、麗ちゃんも気分よくこの朝を迎えてたらいいな、と思いつつ、彼女のいる病室の前に立つ。
ノックすると、「はい」と彼女の声。
いつもどおりに起きてるようだ。
「僕だけど、入るよ」と一声かけ、バリアフリーのドアを開く。
「おはよう、郁。昨晩はありがとう」と麗ちゃんは半身を起こし、僕に言った。
「いや、僕にできるのはこのくらいだけどさ。皇爵の屋敷ではとんだ恥をかいちゃったし……」
「ふふふ、郁らしいわよね」とうれしそうに笑う彼女。
よかった──。
どうやら具合はよくなったようだ。
「うまくいきそうでよかったね。これで九条院もひと山越えたのかな?」
「とりあえず、ってところね。まだまだ難題が山積みだけど……」
そう言い、麗ちゃんは病室の外へ目を向けた。そして、
「昨日の件で私はもう一つ認識したことがあるの。そっちのほうが難題かも」
僕は皇爵と麗ちゃんのやり取りを思い返した。
僕は気付かなかったけど、経営者として気に病むべきことが、なにか他にもあったのだろうか?
僕が考えあぐねて黙りこんでると、麗ちゃんは僕を見て、ぼそっとつぶやいた。
「まあ、そんな郁だから、仕方ないか……」
「ごめん。ちょっと経営には疎くて、というか僕にはわからないよ。一緒に悩んであげられたら、よかったんだけどね」
頭を掻く僕に、麗ちゃんはまた微笑む。
「ええ、せいぜい悩んでもらうことにするわ。さあ、急いで学校に行きましょ」
そう言い、ベッドから降り、パジャマを脱ぎ始めた。僕は慌てて背を向けた。
「え、え、学校に行くの? 今日くらいは休んだほうがいいんじゃない?」
「高校でも皆勤賞を狙ってるの。これぐらいで休んでいられますか」
麗ちゃんが一度言い出せば、引くことはまれだ。
確かに小中と全部皆勤賞だった彼女。
ちょっと完全主義すぎるような気もするけど、それが麗ちゃんだ。
しかし、その日、彼女を休ませてれば、心の傷も多少は違ったかもしれない、と僕は後悔することになる。
その日、6月13日は九条院一族の命運を決める試練の日だったのだ。
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