タイムゴムチューブ

朝倉亜空

第1話

「勝ちましたー! 相手に一切何もさせず、またもパーフェクト勝利です!」

 リングサイドの実況アナウンサーが大声で叫んだ。「ひらりひらりと相手の攻撃をすべてかわし、そして、自分のパンチは正確にお見舞いする、まさに打たせずに打つ。沢田、これで無傷の6連勝です!」

 マットに沈んだ対戦相手のテンカウントゴングを聞いて、俺は会場に集まってくれたファンに向かい、両手を振り上げた。

「沢田選手、凄いですね。今日も顔にはかすり傷一つもついてない、完全勝利です。感想を一言ください!」

  リングに上がってきたアナウンサーが、俺にマイクを向けながら言った。

「毎日、キツいトレーニングをサボらずにやってきたおかげです。それも、ファンの皆さんの応援があってできたことです。ご声援、いつも本当にありがとうございます!」

  俺は言った。嘘を言った。やってきてない。

「これで6連勝。次はだれと戦ってみたいですか。巷では王者、ハンマー石黒との対戦なんて声もありますが……」

「そうですね。ファンが望んでくれるのであれば、こっちとしては、いつでもOKです! 石黒選手、ぜひやりましょう!」

 言いながら俺は、右手で自分の喉をざっくりとかき切る仕草をし、それから、ベロリと舌を垂らした。

「おっと! 出ましたおなじみの首切りパフォーマンス!」  

 アナウンサーが会場をあおるように声のトーンを上げて言った。うぉーーという、観衆のどよめきが続く。  


「わたし、強い男の人が好きなのよ」

 大学時代、俺がひそかに憧れていた女友達の瑠璃ちゃんが言った言葉だ。

 当時、すでに学生ボクサーとして注目されつつあった級友の大黒も、瑠璃ちゃんのことが好きだった。当然の様に二人の距離は接近していき、満たされた学生生活を送るようになっていた。

 大黒は卒業と同時に華々しくプロの道を進んでいった。そして、俺も決めた。プロボクサーになってやる! 大黒と同じリングで戦い、勝利し、瑠璃ちゃんを奪ってやるのだ! 俺は大黒が所属しているジムとはライバル関係になるところへ入門した。

 それ以来、生まれついての運動音痴である俺は、ただ、がむしゃらに、しゃにむに、ひたすらトレーニングに明け暮れ……、なかった。まったくもって、何もやらなかった。実は、俺には特殊な能力があったからなのだ。

 それは、タイム・ストレッチング。時間伸長能力である。

 俺は時間の流れを2倍や3倍に伸ばせるのだ。すると、どうなるか。普通の人にとっての1分間が、俺には2分や3分に感じられるということになるのだ。

 簡単に言うと、人や物の動きの速度が2分の1、3分の1にスローモーに見えてくるということである。この能力さえあれば、ボクシングなんてのは、ひょひょいのひょいである。

 相手の繰り出すジャブやストレートもゆっくりと見えるもんだから、たやすくかわした後、こっちのパンチをお見舞いすればよい。それに対し、そのスローモーな時空間の中であっても俺は普通に動けるわけで、逆に俺の攻撃は相手にとっては2倍速、3倍速に見えるのだ。結果、トレーニングを積み重ねていない俺のパンチがビシバシ当たるという訳だ。

 やり方は実に簡単で、誰でも一度は自転車のタイヤの中の黒いゴムチューブを見たことがあると思うのだが、俺の頭の中には常にそのゴムチューブのイメージがはいっていて、そいつをグイーンと 引っ張り伸ばす想像をするだけなのだ。

 そのゴムチューブが時間を具現化したイメージであり、それを引き伸ばすことにより、実際の時間の進行具合も伸びるのだ。それを俺はタイムゴムチューブと名付けている。

 そしていよいよ、俺と石黒との日本タイトルマッチは、年の瀬のクリスマス興行に決まった。 

 石黒が必死にトレーニングをこなし、俺が一人安アパートでごろりと寝そべりながらタイムストレッチングの脳内予行演習をのんびりグイーングイーンと行っているうちに、その試合当日がやってきた。

 国内最強のライバル対決ということで、ホールはぎっしり満員状態だった。きっと瑠璃ちゃんもこの会場のどこかで俺たちのことを見守っているに違いない。

そして、時が迫りついにメインエベント。俺と石黒、両者のグローブがリング中央でパン、と合わさり、決戦は始まった。と同時に俺は頭の中でチューブをグイーン。待っててね、瑠璃ちゃん、俺は勝つよ!

 見える、見えるぜぇ~石黒のパンチがスローモーに。俺は上体を左右に揺らすように動かしてた易くかわし、左右ストレートを石黒の顔面目掛けて叩きつけていった。そいつが当たるたんびに面食らった顔をしてやがる。いい調子だ。1ラウンドはこっちが貰ったぜ。

 ゴングが鳴り、はぁはぁ言いながら青コーナーに戻った俺に、トレーナーが頭から水を掛けながら言った。「よーし沢田、順調だ。このペースで次のラウンドも入って行け!」

「はい! はぁ、はぁ」

 俺は答えた。かぁっと火照る身体、特に頭部にぶっ掛けられた水がなんとも気持ちいい。

 1ラウンド目、俺の頭の中のタイムゴムチューブは3倍の長さに伸ばしておいた。大抵の奴なら事足りる伸長具合なのだが、さすが石黒、ラウンド終盤には少しタイミングを合わせてきやがった。パンチスピードが上がり、何発か軽いものを貰ってしまったし、こっちのパンチもかわされ出した。じゃ、チューブを5倍に伸ばすとするか。

 俺はセコンドに声を掛けた。「ぶっ掛け水な、氷でも放り込んで、キンキンに冷やしといてくれよな」

「オーケー、まかしとき!」

 言うなり、セコンド役の同期のジム生が売店に勝ち割り氷を買いに走り出した。俺の勝利はジムの名誉。そのために皆一丸となっている。

 2ラウンド開始のゴングが鳴り、頭からホクホクと湯気を立ち昇らせる俺はリング中央に向かって行った。

 もし、タイムゴムチューブに一つ欠点があるとしたら、それは頭がボワッと熱くなってくることだろうか。きっと脳内をめぐる血流量が超大量になっているのだろうと考えている。そしてそれは2倍伸ばしよりも3倍、3倍伸ばしよりも4倍の方がより頭が熱くなってくるのだ。

 水を被り少し冷やされた頭で、俺は脳内のタイムチューブをグヨーンと5倍ほど伸ばした。即座に軽い火照りを感じたものの、効果はてきめんで、石黒のすべての動きがゆったりと見えていた。おそらくは電光石火の左ジャブを俺は顔を曲げるだけでかわし、俺のシロウト丸出しの隙だらけの大ぶりの右フックが小黒の顔面にバチコーンと当たった。よろめく大黒。俺はすかさず左ストレートを放ち、そいつは大黒の鼻先にめり込み、大黒はダウンした。

 うぅわあああん、つぅうううう、すうぅりぃぃぃ、ふぉおおおぅう、……。

 5倍に間延びされた野太い声で、レフェリーのカウントが聞こえた。

 石黒はカウントエイトのタイミングで立ち上がってきた。石黒もふらついた足取りをしているが、こっちも頭がのぼせ上って、結構フラフラだ。倒れちゃいけないぞ。打たれていない俺の方が倒れちゃ、ナンボなんでも変に思われるじゃないか。ここは我慢して、ラッシュを畳みかけるんだ!俺は息を切らしながら、がむしゃらに拳を繰り出した。いやー、タイムゴム超能力者もこれはこれでキツイぜぇ。よくよく考えたら、3分を5倍伸ばししてるんだから、俺の体感的には15分間の殴り合いっこって訳なんだな。きついわーそりゃ。

 結局、もう一度大黒からダウンを奪ったところで第2ラウンドが終わった。

 戻ったコーナーの椅子に座るなり、俺はセコンドに言った。

「こ、氷水、早く、かぶせろ、あ、頭に」

 背中から、頭から、俺はもくもくと汗の湯気を立てている。

「あいよー! 沢田、頑張ってくれよ! 大丈夫か。顔面真っ赤だぞ」

 セコンドがそう言いながら、俺の頭頂部辺りから氷入りのバケツの水をたらーと垂らしてくれた。気持ちいい。だが、まだ全然足りない。俺の脳内はボウボウと燃えている。

「おい、バケツを頭の上でひっくり返してくれ!」

 俺は言った。

 セコンドは戸惑ったようにトレーナーの方を見た。

「やってやれ」

 トレーナーは軽くうなずいて言った。「マットに落ちた水はタオルで拭いてやればいい」

 冷えっ冷えの氷水が大量に俺の頭の上からぶっ掛けられ、急速に体温を下げた俺は完全に生き返った。とは言え、俺の体力も相当消耗している。体感15分は持たない。タイムゴムは3倍伸ばし、体感9分で行こう。次のラウンドで奴を倒すッ。 瑠璃ちゃんゲットだぜ!

 ゴングが鳴り、立ち上がった俺はトレーナーに言った。「このラウンドで終わらせます」

「よっしゃ! いってこい!」

 トレーナーはパン、と俺の背中を叩き、気合を入れてくれた。

 リング中央に歩み寄りながら、俺は頭の中のタイムチューブを3倍ほど伸ばす。

 バチーーン!

 突然、何かが引きちぎられるような音が頭の中に響くのを聞いた。

 必死の形相で近づいてきた石黒が物凄いラッシュでパンチの連打を繰り出してきた。それらを俺の顔面が全部食う。死に物狂いで放たれるパンチは速いはやい。全部食う。おかわりも食う。超一流のボクサーのパンチを、スポーツ音痴の顔面が一発残らずたいらげた。のびた。倒れた。タイムゴムがちぎれたのだと俺は悟った。遠ざかる意識の中、瑠璃ちゃんの声が聞こえた。石黒君はあんなのに負けないわー……。 

 

 ゴムはその性質上、高温度、低温度、またその急激な温度変化に弱く、劣化したものは柔軟な伸縮性を失い、硬化し、切れやすくなる。また、一部には水に弱いものもある。沢田のものはどうやらそれだったようで……。


 

 


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