ヒツジのいる風景

令狐冲三

ヒツジのいる風景

 時計を気にしながら、私は窓の外を眺めていた。


 硝子の向こうはまだ冬景色だった。


 誰も彼もが厚着をして、冷たい北風に肩をすぼめている。


 三日前に降り積もった雪はほとんど溶け、道の両側へ薄汚く寄せ集められて、もう何週間もほったらかしになっているような印象だ。


 ぬかるみをよけながら行き来する無数の脚を目で追ううち、私はなぜ自分がここに座っているのか疑わしくなってくるのだった。


 時計の針は遅々として進まない。


 待ち人もいっこうに現れない。


 冷めたコーヒーを一口流し込み、もう一度外を見た。


 ビラを配るサンタクロースの真っ赤な衣装。


 泥をはねて走りすぎる銀色のクーペ。


 そんなものを眺めているうち、時間は勝手に過ぎて行くだろう。


 通りを挟んでいろいろな店舗が軒を連ね、何たらいうブランドショップの前にも、私と同じような時間の犠牲者が立っていた。


 白っぽいセーターにパンツ姿の若いヒツジは、さっきから落ち着きなく周囲を見回し、時折ショーウィンドーを覗き込んではせつなげな溜息をついている。


 私はほとんど30分近く、彼女(定かではないが、ブランドショップの前で溜息をついているのだから女の子なのだろう)の挙動に注目していた。


 別段、理由などない。


 誰だってそうするだろう。


 ヒツジという生き物は、時々こうして思いがけず奇妙な風景を見せる。



 時には、こんな出会いもある。


 以前、K太郎のアパートを訪ねた折には、ドアを開けたヒツジが、慇懃に頭を下げたものだ。


「いらっしゃいませ」


「い、いらっしゃいました」


 わけがわからなくなってそう口走った私に、奥からK太郎が声をかけてきた。


「よう、入ってくれ」


 私はヒツジの顔を見ず、失礼します、とだけ言ってその横をすり抜けた。


 声のした部屋では、K太郎ともう一匹の別のヒツジが仲良く炬燵を囲んでいた。


「まあ座れよ。暖かいぜ」と、K太郎は言った。


 私は言われた通り炬燵へ入った。


 ヒツジは極度の近眼らしく、鼻先をくっつけるようにしてマイニチシンブンの活字に見入っている。


 さっきのヒツジは、台所からお茶を運んできた。


「どうぞ」


「こりゃ、どうも」


 私はヒツジのいれてくれたお茶というものを初めて飲んだ。


 別段、変わりない。


 ただヒツジがいれたというだけのことだ。


 ヒツジはさらに二杯ついでくれた。


 もう一匹の方は相変わらずマイニチシンブンに夢中で、私などには目もくれない。


 一方のヒツジが台所へ立って行ったので、私はマイニチシンブンを読みふけっているヒツジに聞こえぬよう声を潜めてK太郎に耳打ちした。


「お前、よく平気で住んでるな」


「勝手に入ってくるんだ。しょうがないだろ」


 K太郎はヒツジをチラッと横目で見て、


「お前に来てもらったのは、そのことで相談があるからなんだ」


「深刻だな」


 言った自分が馬鹿らしい。


「そうさ」と、K太郎は肯いた。「ホントに深刻なんだ。ヒツジってのはイヌについで二番目に家畜になった動物なんだ。昔から、人類の良き友だった」


「俺にどうしろってんだ」


「うん、そこだよ。どうやったら出て行くかな」


 私はギクッとしてヒツジを見遣った。


 相変わらず熱心にマイニチシンブンを読んでいる。


「大丈夫だよ。連中、耳が遠いんだ」


 そう言って、K太郎はヒツジの耳元で、


 オッサーン!


 と叫んだが、ヒツジは平然と活字に見入っていた。


「まあ、彼らは俺のメシも作ってくれるし、一点を除けば害はないんだけどさ」


「一点?」


「うん。つまりさ、連中、毎晩俺が寝床につくと枕元へやってきて、あっち向いてホイを始めるんだ」


 私は彼らのあっち向いてホイを想像してみた。


「このままじゃ俺、寝不足で死んじゃうよ。ヒツジがいるんで誰も来てくれない。カノジョまで別れるって言うんだ。お前は大物だ。何食わぬ顔で炬燵に入って、ヒツジのいれたお茶まで飲んだ。きっといい考えが浮かぶはずだよ」


 焦る気持ちはよくわかる。


 それに、不眠は死に至る病だ。


 私はもう一度ヒツジを見遣ってから、思いきって言った。


「腕ずくで追い出しちまえ。イヌか何かけしかけてさ」


「ダメだよ。オバサンはスーパーで買い物をしてくれるし、オジサンは近所の子供達の人気者なんだ。無理矢理追い出すなんて、俺にはできないよ」


 半分泣きそうなK太郎を尻目に、オバサンは器に入った煎餅をすすめてくれた。


 オジサンがシャーロック・ホームズよろしくパイプを取り出して火を点けると、立ち上る紫煙に私はむせ返った。



 時計を気にしながら、私は窓の外を眺めている。


 硝子の向こうはまだ冬景色だった。


 何たらいうブランドショップの前に、白っぽいセーターにパンツ姿の若い女が立っている。


 私は目をしばたたいた。


 K太郎は結局年老いたヒツジ夫婦にアパートを空け渡し、他所へ移った。


 2DKのアパートでひっそりと暮らすヒツジの老夫婦。


 そして、街角に佇む白いセーターを着た若いヒツジは女の子だった。


 時計の針は遅々として進まない。


 待ち人もいっこうに現れない。


 年老いたヒツジ夫婦を腕ずくで追い出すようなことをしなくて本当に良かった。


 あやうく、一組の年老いたヒツジ夫婦を路頭に迷わせるところだったのだ。


 もっとも、そんなのはショーウィンドーの前の女の子にはあずかり知らぬことである。



 街にはぼちぼち家族連れのヒツジが増え始める。

 数えながら、もうしばらく待ってみようと私は思った。 

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ヒツジのいる風景 令狐冲三 @houshyo

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