聴診器のなみだ 💧

上月くるを

聴診器のなみだ 💧




 あれ、先生、また泣いていらっしゃる。

 白衣の胸、小刻みにふるえているもの。


 なにしろ先生とのお付き合いは長いからね、かれこれ十数年、もっとになるかも。

 いまどきの若い医師には聴診器なんてカッコわるいと言う人もいるらしいけどね。


 ぼくの先生はシニアだし、それ以上に「これがないと患者さんが安心できません。町医者の神器です(笑)」って大切に扱ってくださるから、いまだに新品同様だよ。


 さっきの話にもどると、そうでなくても心の繊維質が繊細な先生がつい涙を見せてしまわれたのは、余命いくばくもない重病の床にある、訪問看護の患者さんのため。



 ――先生……おれを……見放さないで。(´;ω;`)ウッウッウッ



 こんなことを言われたら、たいがいの人が胸にせり上がるものをおさえられないと思うけど、なにしろ、ぼくの先生はご自身も患者だからね、それも心療内科の……。


 

 ――いまさら、なにをばかなことを言っているんですか、小早川さん。

   阿弥陀仏の御手にちゃんとお渡しするまで、絶対に放しませんよ。



 言葉がふるえないようそれだけ言うのがやっとで、ぼくもつい……。(/・ω・)/

 患者さんも、先生が見捨てるはずがないこと知っていてカクニンするんだろうね。

 


 

      💦




 まだ心を病む前で、地域の中堅病院の勤務医だったころ、同僚の医師や看護師さんたちが患者さんの耳がないところでする世間話がいやで仕方がなかったんだ、先生。


 人間、生きて来たように死ぬ……医療関係者の常識になっているけど、自分たちも含め訳ありじゃない人なんていないよね、みんな事情を抱えて生きているんだから。


 それが先生の考え方で、先生と一心同体のぼくも、まったくそのとおりだと思う。

 なのに因果関係があるようにヒモづけたり、まして「業病」なんて言うのは……。


 そんな環境に堪えられなくなった先生は、大学時代の友人の心療内科に診てもらいながら、細々と産業医や嘱託医をつづけ、数年前から訪問看護に携わっているんだ。




      🏥




 訪問看護の現場は終末期の患者さんが多いから、その点メンタル的にきついけど、同僚との競争や看護師長の圧迫などとは無縁だから、先生、性に合っているみたい。


 家庭にお邪魔するのだから、どうしても患者さんの家族関係が見えてしまい、それを煩わしく感じたら大変だけど、幸いにも、ぼくの先生は博愛主義(笑)だからね。


 独り住まいの患者の家族が近くにいようが遠隔地にいようが、あるいは天涯孤独の身の上であろうが、だれもが精いっぱい生きて来たんだからと、ニコニコしている。


 人間の心は複雑で、必ずしも目の前で行われていることがその人の真実ではない。

 ときに心とは裏腹の行動をとりがちなのも、煩悩具足の人間の当たり前なんだね。




      🍏




 たとえば、寝たきりの老親を放っておき、たまに来たと思えば、医療・介護従事者の介護をよそに平気で足にペディキュアを塗っている、絵に描いたような親不孝娘。


 やはり、ふだんはほとんど寄り付かないが、訪問看護の時間を狙ったようにやって来て、しきりに愛想をふりまき、申し分のない親孝行ぶりを演じてみせる息子夫婦。


 どっちがどうと軽々には言えないけれど、それぞれの家族の本当の気持ちは、患者さんのご臨終のときに明白になる……先生は、心の内でいつもそう言っているんだ。




      🕊️




 筋張った手を撫でさすっていた先生は、静かな寝息を聞いて、そっと立ち上がり、交替で詰めている看護師さんや介護士さんがいないとき用のモルヒネをたしかめる。


 残り少ない時間を少しでも楽しく、苦しまないように……先生の切なる願いだよ。

 穏やかな笑顔で旅立つ小早川さんは、弥陀の胸にやさしく抱きとられるだろうね。

 


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