30:貼紙
「ちょっとアンタ、入口の貼紙見なかったのかい! ここは立ち入り禁止だよ!」
突如として投げかけられた怒声に、Xはびくりと震えて立ち止まって声の聞こえてきた方向を振り向いた。
しかし、ディスプレイ越しのXの視界に映るのは、今まで彼が通ってきた、松明を挿した燭台が壁に並ぶ薄暗い通路であり、声の主の姿は見えない――と、思ったのだが。
「どこを見てんだい。こっちだよ、こっち」
こっち、という声に引っ張られるように、Xの視線が下を向く。そこには、確かに一人の女性が立っていた。顔立ちから判断するに、Xとそう年齢が変わらないくらいだろうか。だが、その背丈はⅩの腰辺りまでしかなく、体つきといい、顔のつくりといい、服装といい、童話『白雪姫』に登場する小人――もっと正確に言うならば、ディズニーのアニメーションで描かれたそれ――を思わせる。
そんな『異界』の住人の女性は、腰に手を当ててXを見上げている。Xは「すみません」と深々と頭を下げて、それから女性と視線を合わせるようにその場に片膝をついて言う。
「しかし、貼紙には気づいていたんですが、読めなかったんです」
「うん?」
「知らない文字、だったので」
そう、この建造物の入口には確かに貼紙が貼られていた。だが、そこに書かれていたのは私の目にもミミズがのたくったような線の羅列にしか見えず、それが「文字」であると想像はできても、書かれている内容を読み取ることはできなかったのだった。
今までの『潜航』の記録を総合すると、『異界』においてそこの住民たちと言葉が通じる可能性は半々といったところだが、文字はXにも我々にも読めない場合が多い。同じ「言語」というカテゴリでありながら、音声言語と文字言語とで理解の可否に一体どのような違いが生まれているのか、興味深くはある。
とはいえ、その辺りの仕組みを考察するのは後にすべきで、今はディスプレイとスピーカーから得られる『異界』の情報に集中する。
女性は床の上に膝をつくXの頭から足元までを舐めるように見て、それから目を細める。
「……よくよく見れば随分変な格好だし、どこから来たんだい、アンタ」
確かに、松明の炎にかろうじて照らされた石造りの不気味な迷宮に、ぶかぶかのトレーナーに幅広のズボンとサンダルという姿はあまりにも似つかわしくない。一体何を思ってそんな格好をしてきたのか、という気持ちにもなるというものだ。
「ええと、何と言えばいいか……、遠い場所から来たのは、確かなんですが。あちこちを巡る旅をしていて、それで、気づいたら、この建造物の前にいまして」
「何だい、それは。ちょっと、頭は大丈夫かい?」
「よく言われます。一応、異常はない、という診断は受けましたが……」
どこかピントのずれた応答をするXに、女性はすっかり呆れ果てたようで、長々と溜息をついた。ただ、そこに女性を騙そうとする意図や、悪意や害意といったものが含まれていないことはわかってもらえたらしく、肩を竦めて言うのだった。
「とんでもなく怪しいけど、まあ、荒らす気がないならいいよ。興味があるなら好きに見ていきな。何が起こっても保障はできないけどね」
「ここは、どのような場所なんですか?」
「見ての通り、墓だよ。ここの土地の領主様のね」
「墓……?」
「そう、墓さ。とびっきりでっかくて、とびっきり静かで、とびっきり危険で、とびっきりの宝物と一緒に葬るのにうってつけの墓」
どうもXはぴんと来ていないようで、首を傾げているのがディスプレイの動きから窺えるが、女性の話から判断するに、これはいわゆる『ダンジョン』なのだろう。
ダンジョン、という言葉は元々は「地下牢」という意味なのだが、現在は一般的に「ゲームの中に登場する、冒険の舞台となる危険な場所」全般を指す。ゲームのプレイヤーは、ダンジョンの中にある宝――それは言葉通りの「宝物」であることもあれば、情報であったり、はたまた物語を進めるための鍵だったりするわけだが――を求めてダンジョンに潜り、危険に挑んでいくわけだ。
この『異界』がどのような社会を築いているのかはわからないが、どうやら女性が「領主」と呼ぶ人物は、自らの所有する宝物とともに、広く深いダンジョンの奥に葬られることを望んだらしい。「とびっきり危険で」と言ったからには、葬られたものを守るための、侵入者を害する仕掛けも用意されているに違いない。
つまり、現時点で特に罠らしきものにぶつかっていないところをみるに、Xは相当運が良かったということだろう。未だに何故かはわからないのだが、Xは意識的にも無意識的にも、危機を回避する能力が高いのだと思っている。そうでなければ、数多の『異界』を渡り歩いて、無事でいられるはずがない。
「あたしは、ここの守りを任されてるんだがね。今まで盗人は何人も見てきたけど、ここまで何もわかってないまま入ってきた奴は、アンタが初めてだよ」
「すみません」
「けど、言われてみりゃあ、文字が読めないって可能性を考えてなかったねえ。あたしは文字が読めて当たり前だから気にしたことなかったけど、立ち入り禁止の警告が読めてないんじゃあ、アンタみたいにひょいっと入っちまった奴は困るだろうし、あたしも困る」
「あなたも、困りますか」
「盗人が罠にかかるのはなかなか愉快だけど、意図しない侵入者は少ない方がいいからね。死体の片づけはねえ、案外、大変なんだよ」
「なるほど。それは、わかります」
わかってしまうのか。いや、殺人犯である以上、殺した後の死体の処分も経験があるのだろうが、さらっと「わかる」と言うようなものではない、と思う。
「アンタ、なんかいい方法ないかい? 一発で、ここが立ち入り禁止だってわかる方法さ」
「そうですね……」
Xは少し思案する。入口を塞ぐのが最も手っ取り早いわけだが、現実には迷宮への扉が開かれていた以上、おそらく入口を閉ざすのはこの女性の――もしくは、彼女に迷宮の守りを依頼した「領主」の望みではないのだろう。
つまるところ、あの貼紙は、挑戦状のようなものなのだ。警告を素直に飲み込んで退散する善良な迷い人と、警告を無視してでも迷宮に挑もうとする盗人を篩にかける、貼紙。だからこそ、正確に意図が伝わらなければ困る、ということでもある。
「ああ、それなら、絵を添えるのはどうでしょう」
「絵を?」
「ここに入ったらどうなるか、簡単な絵で示すんです。私の故郷では、道具や装置の説明書きに、どのような行動が危険を伴うのか、言葉に加えて絵で示します」
Xが言っているのは、警告図記号や危険内容の絵表示のことだろう。『こちら側』には数多くの言語があり、その全てを理解できる者などいないわけで、言葉による説明では理解できないこともある。そこで、言葉を介することなく、一目で危険の内容がわかるように添えられるのが記号や絵表示だ。
そして、この『異界』においても、絵が持つ伝達の力は変わらないに違いない。女性は「それはいいねえ」と頷いて、Xの前に手をかざしたかと思うと、何もない場所から紙と羽ペンを取り出してみせる。
「じゃあ、さっそく、描いてくれないかい」
「私が、ですか」
「アンタが言い出したんだろ? 見本を見せてもらわなきゃだよ」
Xは「はあ」とどこか煮え切らないような声を出しながらも、女性が差し出す紙とペンを受け取った。今度は両膝をついて、石の床の上に紙を置き、ペンを走らせる。見た目はただの羽ペンのようだったが、どうも自動的にインクが染みだす仕組みらしく、ペン先をインク壺にいちいち浸す必要はないようだった。
そうして、女性が横から覗き込む中、Xによる「この墓所に立ち入った際に考えられる危険」の絵ができあがったわけだが。
それは、何というか……、何、と言うべきか。私が、Xの視界を映すディスプレイ越しに見た絵に対する適切な表現を探している間に、女性が溜息交じりに私の感想を代弁してくれたのだった。
「アンタ……、絵、下手だねえ……」
「すみません……」
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