31:夏祭り

 気づけば、見知らぬ神社の鳥居の前に立っていた。

 境内には屋台が立ち並び、屋台の照明と連なる提灯によって、夜であるはずなのに昼のような明るさで、目がくらみそうだ。

 次から次へと人がやってきては鳥居をくぐっていく。浴衣姿の人もいれば、身軽そうなTシャツ姿の人もいる。かく言う自分もいつの間にか浴衣を着ていた。藍の地に菖蒲が描かれた、少々古風な、けれど自分では気に入っている浴衣。この浴衣を最後に着たのはいつだっただろう、どうにも思い出せずにいる。

 大人も子供も、ありとあらゆる人々の姿が視界の中で混ざり合い、どこかで演奏されている祭り囃子が、これだけの人の中にありながらはっきりと届く。

 祭り、そう、これは祭りだ。だが、どうして私はここに立ち尽くしているのか。そもそもここがどこなのかも思い出せない。頭の中に霞がかかったようで、草履を履いた足元がおぼつかない。

 その時、すぐ側で名を呼ばれた。この喧騒の中でも不思議とよく通る低い声を、私はよく知っていた。

 声の聞こえてきた方に視線を向ければ、そこに立っていたのは想像通りの人物だった。

 立って並ぶと背丈は私とほとんど同じ。白髪の多い髪を短く刈り、年齢よりも老けて見える以外に特徴らしい特徴を見出せない顔の中、片目が見えていないが故の、わずかに焦点のずれた目がこちらに向けられている。その服装は、いつもの通りの長袖のトレーナーに長ズボンで、この季節には暑そうだ。

「……X?」

 はい、とXが律儀に返事をする。発言を許可はしていないはずだが、そもそもここは研究室ではないから何も問題はないのだ、と一拍遅れて気づく。そもそも、私はXに発言を禁じているわけでもないのだから、この思考だっておかしくて――。

「そう」

 それで、やっと腑に落ちた。知らない場所、知らない祭り、そして何故かこの場に立っているX。それが意味するものなど、決まりきっているではないか。

「これは、夢ね」

「ええ、夢ですよ」

 Xもまた、当たり前のように答えた。

 明晰夢。夢と理解しながら見る夢。どうやら今日の私は、随分気持ちよく眠っているらしい。こんな賑やかで明るい光景を夢に見るくらいなのだから。

「夢なら何もおかしくないわね。……こんな形であなたと顔を合わせるのは、少し不思議な気分だけど」

 私は、研究室以外の場所でXの顔を見る機会を持たない。研究所地下の独房でXがどんな顔をして過ごしているのかを知ることはないし、『異界』に『潜航』している際には全てが「Xの視点」を通す以上、鏡を通さなければ顔を確認することはできない。

 だから、こうして、研究室ではない場所に、同じ視線で立っているというのは、夢であろうと何であろうと稀有なものなのだ。

 目の前に立つXの両手は手錠で戒められていなかったし、周りには他のスタッフも、監視役の刑務官もいない。この至近距離ならば、簡単に私を害することもできるだろう。しかし、不思議と恐れの気持ちは浮かばなかった。これが私自身の夢だと理解している、というのもあるが、何より、Xが私に危害を加えるはずがない、と考えてしまう程度にはXを信頼しているのかもしれない。

 それに、もし彼にその気さえあれば、手錠を嵌められていたとしても、周りに誰がいたとしても、私を殺してみせるだろう。根拠はないが、今までの言動から判断するに、何とはなしにそんな確信を持っている。

 だから、恐れたところで仕方なく、恐れる必要がないならば、普段と変わらず接するだけだった。

「それで、Xはどうしてここに?」

「別に、望んで来たわけでは、ないのですが。……それは、あなたも、同じでは?」

「それもそう。夢に整合性なんて求める方が無粋ってものね」

 少しだけ困った顔をするXから、流れていく人々に視線を向ける。誰しも楽しげに笑いながら、並ぶ色鮮やかなお面を選んでいたり、大きな綿飴を手にしていたり、透明な袋に入った金魚を手に提げていたり……。幼い頃から親しんできた夏祭りの光景に他ならない。規模に関して言えば、実家近くの小さな神社の祭りとは比べ物にならない大きさだが。

「祭りの夢を見ている以上は、楽しまないと、嘘かしら」

 そうですね、とXはほんの少しだけ表情を緩めた。笑おうとした、のかもしれなかった。とはいえ、Xの笑顔を現実で見たことがない以上、夢の中でもイメージできなかったに違いなく、目を細める程度の表情の変化でしかなかったのだが。

「ああ、でも、そういえばお金を持ってないわね」

 せっかくこんなに様々な屋台が並んでいるのに、金がない以上、できることは冷やかし程度。よく『異界』においてXが金銭がらみで困っているところを見ていただけに、自分がXと同じことで困っているという事実に、ちょっとおかしくなってしまう。

 すると、Xがあっけらかんとした調子で言う。

「少しだけなら、ありますよ」

 そう言って、ズボンのポケットから取り出されたのは、数枚の紙幣、それからいくばくかの小銭。提灯の明かりに照らされるそれらは、私も見たことのない図柄をしている。

「どうしたの、それ」

「先ほど、体調を崩した方を介抱したところ、お礼としていただきました。構わないとは言ったんですが」

「こんなところでも、あなたらしいわね」

 それとも、夢だからこそ、なのだろうか。困っている相手を放っておけない、というのは彼の美徳であるが、同時に厄介な面でもある。今回はその性質が良い方向に働いたようだが、面倒事を引き寄せることも多いから。

「それじゃあ、付き合ってもらっていいかしら」

「元より、そのつもりです。行きましょうか」

 かくして、私はXを連れて歩き出す。

 立ち並ぶ屋台には本当に様々なものがあった。見慣れたものから、一体何を扱っているのか定かではないものまで。正体不明の食物に手を出すのは夢であっても気が引けるので、無難に見えるかき氷を一つ買ってみる。シロップはブルーハワイに決めた。

「あなたは?」

「私も、食べていいのですか」

「そもそも、あなたのお金じゃない。私に遠慮することなんて何もないのよ」

「では――」

 Xは色とりどりのシロップに少しだけ迷うような素振りを見せてから、メロンを選んだ。手回しのかき氷機が回されれば、しゃきしゃきと耳に心地よい音を立てて氷が削られていき、やがて青のシロップと緑のシロップがたっぷりかけられた、カップに入ったかき氷が手渡される。

「いただきます」

 ストローのスプーンですくって食べてみれば、甘さと冷たさが口いっぱいに広がる。子供のころは夏が来るたびに食べたはずだが、近頃はあえてかき氷を買い求めることなどしてこなかったから、この素朴な夏の味が染みる。

「おいしい?」

「はい。……懐かしい、味が、します」

 懐かしい。Xにも、こうして祭りの屋台を巡り、かき氷を手にしたことがあったのだろうか。殺人犯として捕まる前、外界と接点があった頃に。その、どこか焦点の曖昧な目は、遠い過去を見ているような気がしてならない。

 そうして、かき氷を食べ終えたところで再びあてもなく歩き始める。屋台に並べられた不思議な形の物体に、これは何だろう、とXと一緒に首を傾げてみたり、金魚にしてはあまりにも様々な色で煌めく魚たちに見とれて「欲しいですか?」と言われたり。もし頷いていたら、全力で金魚すくいをしてくれたのかもしれない。Xのポイ捌きはちょっと見てみたかったが、夢の中であっても、生物に手を出すのははばかられたので首を横に振った。

 そうして人ごみの中を歩いていくうちに、ひとつの屋台に意識が吸い寄せられる。Xも私から一拍遅れて足を止め、屋台を覗きこむ。

「……射的、ですか」

「ええ。あの景品が、気になってて」

「ぬいぐるみ?」

 そう、棚の上にはお菓子やゲーム機の箱など、いくつもの景品が並べられているが、私が見ていたのは、小さなぬいぐるみだ。黄色くて、ちょっと不格好な鳥の形をしている。特別名のあるキャラクターでもないだろう、いかにも安物のぬいぐるみ。

 けれど、――夢に出るくらいには、記憶に焼き付いているのかもしれなかった。

「あのぬいぐるみ、小さいころにも見たなと思って。そう、射的の屋台で見たの。どうしてでしょうね、妹が、どうしても欲しいって言いだしたのよ。だけど、妹と一緒に、親からもらったお金を全部つぎ込んでも、手に入らなかった」

「妹さんというのは……、双子の?」

 Xの言葉に、ひとつ、頷く。

 私には妹が二人いる。年下の妹は今も一緒に暮らしているが、もう一人、私の片割れともいえる双子の妹は、行方知れずになって久しい。もう少し正しく言うなら、「神隠しに遭って久しい」というべきか。私は妹が消えた、その瞬間を目にしていたのだから。

 そのことを既に知っているXは「なるほど」と言って、ぬいぐるみからこちらに視線を戻す。

「やってみますか」

「そうね。……試しに、ちょっとだけ」

 もう子供ではないし、あのぬいぐるみを欲しがっていた妹だっていない。だから、ちょっとだけ。今の自分の、気が済む程度の試行でいい。

 金と引き換えに渡されたのは、銃と三つのコルクの弾。景品は棚から落とさなくても、倒せればよいと屋台の店主は言う。つくりものの銃を手にして、Xを振り返る。

「何かコツとかあるかしら」

「どうして、私に聞くんですか」

「銃の扱いは得意でしょう?」

「銃なら、何でも使える、というわけではないんですよ」

 そう言いながらも、Xはごくごく真面目な調子でアドバイスをくれた。きちんと銃を両腕で固定して照準をずらさないこと。狙うならば景品の真ん中ではなく上の方だろうということ。

 言われた通りに銃を両手で支えて、試しに一発撃ってみる。軽い破裂音とともに飛んだコルクは、私の想定した軌道に反してぬいぐるみの下部をかすめるだけだった。

 頭の中でXのアドバイスを反芻しながら、もう一発。今度は弾がぬいぐるみに当たるも、倒すには至らない。

 残された弾は一発。更に挑戦することもできなくはないが、そこまで、夢の中のぬいぐるみに執着しても仕方ないといえば、そう。現実に手に入るわけでもなく、仮に手に入ったところで私にはどうしようもないのだ。だから、挑戦はこれっきり。そのつもりで最後のコルクを詰めて、銃を構える。

 すると、Xの顔がぬっとすぐ横に現れる。ぎょっとしてそちらを見ると、Xは一つ瞬きをして、言った。

「どうやら、弾、少し落ちるみたいですね。更に少し上を狙ってみるといいですよ」

「あ、ありがとう」

 こんなに近くにXの気配を感じたことが、今までにあっただろうか。夢だとわかっていても、何とはなしに緊張してしまう。ひとつ、ふたつ、意識して呼吸をして、少し上、と自分に言い聞かせながら引金に指をかける。

 そして、撃つ。

 銃から飛び出したコルクは、狙い通りにぬいぐるみの頭に当たり、ぐらりと揺れたかと思うと、後ろに倒れた。

 おめでとう、と店主がぬいぐるみを手渡してくれる。遠目で見てもわかっていた通り、少々不細工な顔つきであるし、作りは甘く、手触りも決してよいとは言えない。それでも、かつて手に入れられなかったものを自分の手で得られた、という満足感があった。これを受け取ってくれる妹がここにいない、ということだけが唯一残念なところだろうか。

 Xが私の手の中のぬいぐるみを見ながら、言う。

「よかったですね」

「あなたのアドバイスのおかげ。ありがとう」

 すると、Xがわずかに目を見開いた。これは、礼を言われるなんて思ってもみなかった、という顔だ。Xはいつだって表情に乏しいが、これまでの付き合いで、彼が何を考えているのか、そのわずかな変化から読み取れることが増えた――そんな気はしている。

 この程度の礼の言葉すら、Xにとっては「意外なもの」に違いないのだ。だから、つい、言葉を続けずにはいられなかった。

「感謝してる。……今だけじゃなくて、いつも」

 これは、異界潜航プロジェクトのリーダーとして、そして、「私」個人としての感謝。

 我々は異界潜航サンプルのXがそこにいるのが当然のように感じがちだが、実際にはそうではない。Xは最初のサンプルにして極めて稀有なサンプルであり、彼の功績は計り知れない。だから、リーダーとしての私はXに感謝をしている。『異界』の情報をここまで得られたのは、間違いなくXのおかげなのだから。

 その上で、リーダーとしてではない、私という個人は、もう少し感情的な理由で、感謝の言葉を告げている。

「あなたに会えてよかった」

 これはどこまでも夢で、目の前のXは私の脳が形作ったものでしかなく、X本人に届くことはない。だからこそ、言えることでもあるのだけれど。

 私は、Xという「人間」が嫌いになれない。

 リーダーとしての私はXを人間として扱わない。扱うべきでないと考えているし、それが『異界』研究の上で間違った姿勢だとも思っていない――人道的に間違っている、と言われれば否定はできないし、する気もないが。

 しかし、Xとともに過ごすにつれ、人間としての彼に興味を持たなかったか、といえば嘘になる。結局のところ、完全に「人でないもの」として割り切ることなど、不可能なのだ。

 会えてよかった。そう思う程度には、私はXの人となりを好ましく思っているし、もっと彼について知りたいと思っている。決して理解はできないだろうが、それでも。

 Xは面食らったのか、ぱちぱちと激しく瞬きをしていたが、やがて少しだけ口の端を緩めて、言った。

「私もです」

 その言葉は、都合のいい妄想に過ぎない。何しろこれは私の夢なのだから。ただ、言われて初めて、私はXからそう言われたかったのだろう、と気づかされる。

 Xにとって、『異界』を旅する時間が無意味なものでないということ。何かしら、我々と過ごす時間の中で得ることがあればいいということ。それらが、彼の中で少しでもよい記憶であればいい、ということ。

 それは――、私の願いだ。祈りと言い換えてもいい。

 身勝手だといえば全くその通り。だが、そうあってほしいと願わずにはいられない。願うことくらいは、許してほしいと思うのだ。せめて、この、祭りの中でだけでも。

 その時、どん、という音が響いて、視界に映る色がぱっと変わる。見上げれば、腹に響く音を伴って、夜空に大輪の花火が花開き、散っていく。

「そろそろ、祭りも終わりですね」

 ぽつりとXが言葉を落とす。

 祭りの終わり。それは、夢の終わりでもある。

 目を覚ませば、また、異界潜航サンプルという生きた探査機を『異界』に送り込み、ディスプレイ越しに『異界』を観測する日が始まる。それは私自身が望んで続けていることであり、今更辞める気もないが、何故だろう、この夢を終わらせるのが惜しくも思う。

 Xはそんな私の気持ちを察しているのかいないのか、打ち上げられる花火に横顔を照らしながら、いたって穏やかな声で言うのだ。

「入口まで、送りますよ」

 かくして、私とXはゆっくりと帰りつつある人の流れに乗って、神社の鳥居の前まで戻ってきた。鳥居をくぐって神社の外に出れば、夢から覚める。それは、誰に言われたわけでもないが、不思議と確信できた。

 かき氷の甘さも、手の中のぬいぐるみも、全て現実には持ち込めない。夏祭りをXとともに過ごしたという記憶だって、現実ではありえない。

 それでいいのだ。夢は夢で、現実は現実。『こちら側』と『異界』とが交わらないように、それらは交わることはない。交わってはいけない。ただ、ここでの思い出や、感じたことが、頭の片隅にわずかでも残ってくれるなら、それはきっと幸福なことだろう。そう思う。

 鳥居をくぐりながら、一歩後ろのXを振り向いて、笑いかける。

「それじゃあ、また、研究室で」

 Xからの返事はなかった。

 その代わり、その場に立ち止まったXが、深く、深く、頭を下げて――。

 

 夢が、終わる。

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無名夜行 三十一路 青波零也 @aonami

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