26:標本

「標本を作るのが趣味なんです」、と言いながらXにコーヒーと思しき飲み物を振る舞ったのは、ぱりっとした白いシャツの上に、革のベストを着た男性だった。年の頃は『こちら側』の感覚で言うなら四十代そこそこに見え、つまりXの実年齢とそう変わらないだろうか。

 Xは壁にかかっている、オーロラのような鮮やかな色の翅をもつ蝶の標本――そもそも、これが話のきっかけだった――をしばし眺めた後、自分の前に置かれたコーヒーカップに目を落とし、それから改めて男性に視線を戻す。

「標本作り、ですか。……とすると、こちらも、あなたが?」

 こちら、というのは、部屋に置かれている獣の剥製だった。『こちら側』でいう犬のようにも猫のようにも見える、不思議な姿をした獣。四足で立つその姿は、剥製とは思えないほどの生き生きとした存在感に満ちており、なかなか見ごたえがある。

「ええ、そうです。あなたは、作ったことありますか? 標本」

「ちょっとした昆虫標本なら。子供の頃、学校の宿題で」

 学校の宿題、という言葉がXの口から出たことに、何ともいえない心地悪さを覚える。当然といえば当然のことなのだが、Xにも子供だった時代があり、学校に通っていたことだってあるのだ。我々にとっては「生きた探査機」でしかない彼にも、今に至るまでの人生があったということ。

 そんな当たり前の事実を意識させられるとき、Xを一人の人間として見ていないことへの、わずかな罪悪感のようなものがちらつく。今更といえば、その通りなのだが。

 Xと向かい合うように座った男性は、人懐こそうな顔に浮かぶ笑みを深め、丸眼鏡の下からこちらを見やる。

「いかがでしたか、標本作り。楽しかったですか?」

「当時は、宿題として、やっていたので、まだ、よくわからなかったですね。それに、よくないことも起きて」

「よくないこと、ですか……?」

「作った標本を、盗まれたんです。見つかったときには、すっかり、壊されてしまっていて」

 それは、いわゆる、いじめというものではないのか。Xの語り口が淡々と事実を述べるだけのものであることに、なおさら苦い気持ちになる。おそらく、ディスプレイに映る男性の気持ちも私とそう変わらなかったのだろう、笑みを消して細い眉を下げてみせる。

「標本を作ったのはそれきりで、なので、標本というと、どうしてもその時のことが思い出されますね」

「そうですか……、嫌な思い出になってしまったわけですね」

「しかし、標本そのものが嫌いになったというわけでは、ありませんから。どのような標本を、作られているのです?」

 Xは自分の話を早々に切り上げて、男性に話を振る。おそらく、己の過去についてはそれ以上続けるような話でもないし、特に続けたいとも思わなかったに違いない。X自身が過去の出来事についてどのように考えているのかは、その、いたって平坦な喋り方からはまるでわからなかった。

 男性もXに水を向けられて、笑顔を取り戻す。そして、明るい声で言った。

「私も昆虫の標本から始めたんですよ。虫は我々にとって身近ですし、標本の作り方も調べればすぐにわかりますしね」

「なるほど。この他にも色々あるのでしょうか、是非見てみたいです」

「素人の作ったものですが、そう言っていただけると嬉しいですね。後でご案内しますよ」

 朗らかに笑う男性に、Xはどのような表情を返したのだろう。いつだって、私にはディスプレイ越しのXの視点しか見えず、X自身がどういう反応をしているのかを知ることはできない。我々が観測すべきなのは『異界』の事物であり、Xについて知る必要もないといえば、そうなのだが。

 男性はテーブルの上の小さな壺から角砂糖をつまみ上げ、コーヒーカップの中に入れて、Xにも手にした壺を示して見せる。

「お砂糖はいかがですか?」

「いえ、私は結構です」

 どうやらXはコーヒーはブラック派らしい。そうですか、と微笑んだ男性は、カップに添えたスプーンを手に取る。Xはじっとその様子を見つめているようで、ディスプレイの視界も、男性の手元に焦点が合っていた。

 男性の筋張った大きな手が小さなスプーンでコーヒーをかき回していく。その様子をディスプレイに映しこみながら、男性の声が続ける。

「しかし、どうも、人間、欲が出るというか。ひとたび、標本を作る楽しみを知ると、人と同じものを作るだけでは満足できなくなってくるものでしてね」

「それは、わかる気がします。どのような趣味でも、そういうところは、ありますよね」

 Xの言葉に男性がぱっと顔を輝かせるが、もし私であれば、趣味が筋トレくらいしかないXには言われたくない、と思っていただろう。私が知る限り、Xはとにかく、趣味というものには縁遠い。それとも、Xにも、かつてはあったのだろうか。人と同じでは気が済まない、遥かな高みを目指さなければ気が済まない、という類のものが。

「ええ、そうなんですよ。ですから、少し、変わった標本を作ってみたいと思いまして」

「変わった標本、ですか」

「例えば、その蝶々は海の向こうの妖精の森で捕まえたものでしてね。なかなか苦労しましたよ」

 この『異界』がどのような世界なのかは定かではないため、男性の言う「海の向こうの妖精の森」とは「はるか遠い、険しい場所」くらいを指すのだろう、程度の想像しかできないし、Xも同様であったに違いない。しかし、Xはいつも『異界』ではそうであるように、当たり障りのない相槌を打ちながら、男性に話を促していくのだった。

「とはいえ、これも珍しくはありますが、誰も見たことがないもの、というわけでもありません。この蝶の存在は知られていたわけですしね」

「誰も見たことがないもの。……難しいですね」

「ええ、難しいんです。でも、難しいからこそ面白い、ということでもあります」

 少年のように眼鏡の下の目を輝かせて、男性は熱っぽく語る。

「ですから、昆虫だけでなく、『標本にされていないようなもの』を標本にしたらどうだろう、と思ったんです」

「ほう」

「そもそも、標本、というのは、生物の体を保存可能にした状態にしたものを指します。生物の分類を行うために、それらを長期に渡って観察できるように保存する。生きたままのものを変化なく観察し続けるのは困難ですからね」

 男性の言葉は『こちら側』における標本に関する定義とかけ離れていなかった。もしくはXの意識が『こちら側』に合わせて無意識に男性の語彙を変換しているのか、私にはどうにも判断できない。異界潜航サンプルを用いた『異界』の観測は、どうしてもサンプルの主観に依存してしまうから、この辺りは仕方のないことなのだが。

「この時、生物の体を保存可能にするにはいくつかの方法があります。例えばこの蝶は乾燥標本ですね。あなたが作った標本も、昆虫を乾燥させたものだったのではないでしょうか」

「はい、そうでした」

「そして、昆虫と違って外骨格を持たない動物では、液浸標本が一般的ですね。剥製も一種の標本ではあるのですが、内臓を取り除いてしまう剥製と異なり、内臓などの内部組織も保存できるのが液浸標本の特徴です」

『こちら側』で代表的な液浸標本は、やはりホルマリンを用いたものだろう。私も学生のころに、学校でホルマリン漬けの生物や、内臓の一部を目にしたことがあるが、この『異界』でも同じような方法で生物を保存することができるのだろう。

「しかし、液浸標本はほとんどの生物に適用できる一方で、使用する薬液が色素などの組織を溶解してしまい、見た目が変化してしまうことがあります。それに、管理の手間も馬鹿になりません。まず標本そのものが場所を取るし、標本を薬液と一緒に詰めているために重さもある。定期的な薬液の補充も必要です」

「なるほど。取り扱いが難しいんですね」

「そこで、私は考えてみたんです。どのようなものでも標本にできる、新しい方法はないか、と。生物が生きている状態をそのまま保存できる方法。もちろん、標本である以上、標本に直接触れられるようにしなければ意味がありません」

 一応、固体の中に標本を閉じ込めるというやり方もあるにはあるのだが、男性の言うとおり、標本に触れられないというのは研究においては差し支えがあるため、もっぱら展示に用いられるもので、一般的とはいえない。強いて一般的なものを挙げるなら、顕微鏡での観察を必要とする微生物などをプレパラートに封入したもの、くらいだろうか。

 だから、男性の言うような「新しい方法」が『こちら側』でも適用できるというならば、それは画期的な発明に違いない。単純な分類学の枠にとどまらず、生物学全体の発展にもつながるだろう。

「そのような、方法が?」

「ここだけの話ですがね」

 ここだけの話、と言いながら、男性の声は誰が聞いてもそうとわかるくらいに弾んでいる。誰かに話したくて仕方なかった、というのがよくわかる。

「面白い薬剤を開発したのです」

「面白い薬剤」

 ええ、と言って、男性はいつの間にか手に持っていた小さなアンプルをテーブルの上に置く。硝子のアンプルの中に入っている液体は水のように透明で、一目見ただけでは液体の成分を知ることはできそうにない。

「こちらをごく少量投与するだけで、たちどころに、あらゆる組織の動きは停止し、そのまま腐敗も劣化もせずに維持される。投与した瞬間の通りに、何もかもが固定化される」

 ――まるで、時間が止まったかのように。

 はっと、Xの視線が剥製――と思われていた四足の獣に向けられる。まるで今にも動き出しそうな姿は、男性の言うとおり「時間が止まった」かのよう。焦点の合わない獣の瞳は、それでも、生き生きとした輝きに満ちている。生きていたそのままを保存しているというなら、そのように感じられるのも当然、ということか。

「上手くできているでしょう。そちらは特に気に入っているんですよ」

「……この薬は、どのような生物にでも効くんですか」

「少なくとも、今まで投与したものには効いていますね。小さなものから、大きなものまで、色々試しましたから。特に大きなものは、流石に家に入らなかったので、その場で処分することになってしまいましたが。でも、一部を保存しているんですよ、後でお見せしましょうか」

 Xは押し黙ったまま答えなかったが、男性は構わず話を続けていく。

「けれど、まだ、試していない生物もありましてね。是非コレクションに加えたい、とずっと思っていたので、いやあ、ちょうどよかったです」

 ちょうどよい。何が? いや、あえて、聞くまでもないのかもしれなかった。

 Xは黙り込んだまま、手元のコーヒーカップに視線を落とす。普段は出されたものを素直に受け取るXが、一度も、目の前のコーヒーに口をつけていないことに今更ながらに気づく。数多の『異界』を巡ってなお生還している程度には、Xの「生存本能」と言うべき勘は鋭い。

 そのXがコーヒーカップに触れようともしていない、という事実が何を意味していたのか、ここにきて初めて理解できてしまった、気がした。

 果たして、男性はいたってにこやかに――しかし、値踏みするような目つきでXを見つめて、言ったのだった。

「コーヒー、よかったら、冷めないうちにどうぞ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る